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「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その12)(英語の「なぜ」に答える)

Posted on 2014年8月19日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年9月号は、2つの特集があって、1つは「英語の『なぜ』を解きほぐす」です。これには、「指導に役立つ英語史の知識」という副題がついています。私はこのタイトルを読んで、「そんなところまで守備範囲を拡げて大丈夫かなあ?」という疑問を感じました。英語の授業時間数が全面的に増加されたという報道は聞いていないからです。

 

(2)私のほぼ60年間の英語教師としての経験では、とても詮索好きで、“何故ですか?”とよく問うような中、高校生は、英語力はあまり伸びないと感じてきました。そういう生徒は理工系の大学へ進学して立派な成績を残すことは多いように思います。もちろん何事にも“例外”はありますから、“絶対的に”とは言いませんが、“暗記する”、“反復練習する”といった学習作業に素直に応じる生徒のほうが、英語力は伸びる傾向が強いと感じたことが多いのです。

 

(3)私の主観的な印象を実証するためには、何百人かの生徒を何年間も追跡調査して、その英語の成績を比較検討する必要があるでしょう。それは今の私には不可能ですから、なるべく多くの英語教員の方々からご意見を頂ければ有難いと思います。「英語教育」誌の特集の“ことば尻”を捕えるようですが、“英語の『なぜ』を解きほぐす”というのは、“徹底的に突き詰める”といった感じがしますので、そこまでやる必要はないのではないか、と私には思えるのです。

 

(4)特集1の最初の記事は、江藤 裕之(東北大)「英語史の知識を活かした英語教育―『暗記させる』から『理解させ、納得させる』英語の授業へ」というものです。江藤氏は、2013年の3月に東北大学で、「英語教育における英語史の効用」と題するシンポジウムを開催したことに言及して、「『英語教育』誌9月特集号の執筆者の大部分が参加されました」と述べていますから、私は、編集部がこのシンポジアムに参加された先生方に執筆を依頼されたのであろうと推測しました(私の邪推かも知れませんが)。

 

(5)私は頭から、“英語史の知識など要らない”と言うつもりはありせん。私自身も学生時代に、ノーマンコンクエスト(大雑把には、1066年にイギリスにフランス語系の民族が侵攻して、土着の英語がフランス語に変えられたこと)などの話を興味深く思ったことがあります。でも、そういう知識と、学習した英語を実用的に使えるかという問題は別のことだと思うのです。いずれにしても、中学生や高校生を相手に、どこまで“脱線ばなし”をすべきかは、様々な条件があって、一概には言えないと思います。

 

(6)中学生や高校生でも、英語教員が予期しない質問をすることは覚悟して教室に向かう必要があることは私も認めます。特集の記事は、そういう質問を前提にして、英語史の観点からの詳しい解説を示してありますが、かえって英語の学習への興味を失う生徒が多くなるのではないか、と私は心配です。何事も、“過ぎたるは及ばざるがごとし”です。従って、以後の各記事についてのコメントは割愛させて頂きます。その記述内容の正否について論じる資格は自分にはないと思いますから。

 

(7)本号の第2特集は、「ビジネスの現場で求められる英語力とは」で、2編の記事があります。英語教育もそれぞれの自治体や教育委員会の判断で、様々な実践が行われていますから、一般論として論じることには無理があるように思います。「英語教育」誌では、特集ではなく、“参考記事”ということで、こうした記事を折に触れて紹介したらどうでしょうか、と僭越ながら提案するに留めておきます。(この回終り)

「『英語教育』誌批評(大修館書店)」(その11)(小学校英語のことなど)

Posted on 2014年7月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年8月号は、“拡大特集”として、「小学校英語の教科化・低学年化に備える」とあります。それだけならば、私には違和感がないのですが、その後に少し小さい活字で、“「小学校文化」に根ざして”とあるのです。「“小学校文化”って何ものだ!」と私は叫びたくなりました。どこかにきちんと定義してある言い方なのでしょうか?知らないのは私だけなのでしょうか?

 

(2)目次の説明には、「今後の小学校にふさわしい英語授業を考えるには、まず『小学校特有の文化』を再認識したい。児童の発達、指導体制、教員構成などの観点で、小学校の『いま』と『これから』を考えます」とあります。“再認識”と言われるのですから、“小学校文化”というものは、これまで認識されていたと解釈出来ます。“やはり私だけが無知だった”のか、といささか憂鬱になって読み進んでみました。

 

(3)最初の記事は、金森 強「『全人教育』としての小学校英語教育」(関東学院大)で、最初に「忘れてはならない『全人教育』の視点」とあります。私としましては、「おやおや、そんなところまで欲張るのかよ」と言いたくなりました。それまでも、現役の英語教師だった頃の私は、「英語教育の目的は平和教育でなければならない」といった主張をよく聴かされたからです。

 

(4)私には、“平和教育”の重要さを否定するつもりはありません。「でもそれは日本語で十分に考えるべき問題で、何も英語教育にまで言及する必要はないではないか、と考えてきました。“日本人が英語を習う”というのは、容易なことではありません。語順、語彙、慣用表現、日本語に無い発音など学ぶべきことは沢山あります。もちろん、中学3年生ともなれば、教科書の教材の一部に、平和の尊さを扱うものがあってよいし、そういう教材を読んだ感想をつたないながら英語で話したり、書いたりすることの意義は私も認めます。

 

(5)そもそも“全人教育”とはどういうものだろうかと、『明鏡国語辞典』(大修館書店)で、“全人”を引いてみますと、「知識・感情・意志の調和がとれた人。完全な人格を備えた人」「―教育」とありました。「英語教育はそんな高邁な目標があるのか」とまた驚きました。この著者には、「日本の英語教育は効果が無い」とか、「10年以上も習って、ちっとも話せるようにならない」といった苦情は耳に達していないのでしょうか?

 

(6)執筆者たちには大変に失礼ですが、“小学校文化”といった漠然としたものを前提にした記事は読む気がしません。しかも、読んでみると、記事の内容にはこれまでも議論されてきた問題点が多いように思えるのです。鈴木 孝夫(慶応義塾大名誉教授)は、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書、1999)という書物で、「『国際理解』は止めよう」と主張しています。ごく大ざっぱに言えば、「英語教育は欲張り過ぎて効果が上がらないのだ。もっと目標を絞れ」ということです。

 

(7)文科省の言い分や、自民党の主張をただ受け入れるだけではなく、その問題点を指摘することも急務であろうと私は考えます。日本で唯一と言ってよい「英語教育」専門誌のためにも、もっと批判的な記事がたまにはあってよいであろうと思います。「英語教育」編集部の皆さん、ちょっと視点を変えて、さらに努力して下さることを期待しております。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その10)(“デキる指導”と“残念な指導”)

Posted on 2014年6月16日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年7月号の特集は、第1が「『デキる』指導と『残念な』指導Q&A―SLA研究の成果から」となっています。私がまず疑問に思ったのは、“デキる指導”と“残念な指導”とは、対立する概念が明確ではないのではないか、という点です。例えば、“失敗した指導”と“成功した指導”なら対立がはっきりするでしょう。“デキる”という表記も私には違和感があります。

 

(2)7月号の表紙には、「理想と現実を見据えつつ、英語学習・指導の『常識』をいま一度検証する」とあって、「第2言語習得研究は実践に役立つのか/ リスニング/ スピーキング/ リーディング/ ライティング/ 文法/ 語彙/ タスク/ 評価/ 授業全般」と書いてあります。「こんなに欲張って大丈夫かな?」という不安がよぎりました。“英語の勉強方法の常識”といったものが、英語教員によって共通に認識されているものとは思えないからです。

 

(3)最初の記事は、鈴木 渉(宮城教育大)「[概論] 第2言語習得研究は実践に役立つのか」です。“概論”とは言いながら、結構具体的な例を示していますが、私にはその例文がとても稚拙なものに思えました。例えば、“今年の正月に行ったこと”の文章は、I went to my grandparents’ home. I mailed New Year’s cards, I made a new year’s resolution. I went to the shrine.となっています。こんな英文を聞かされたり、読まされたりする生徒に同情せざるを得ないと思いました。

 

(4)浜田 陽(秋田大学教育推進総合センター)「[リスニング] 音をしっかり『捕球』しよう」は、指導に自信のない教員の質問を想定して、その回答に解説を加えています(この形式は、以下の記事に共通です)。想定している英語教員のレベルから考えて、bottom-up skills, top-down skills, shadowing なども説明する必要があるのではないか、と私は思いました。

 

(5)佐藤 匡俊(Andres Bello 大)「[スピーキング] 限られた時間内にスピーキング能力を伸ばすには」では、質問1として、「グループワークにおいて全員が英語で参加するような指導方法はありますか?」とあって、「ロールプレイ用の台本を渡す」は不正解、「一人一人に役割を与える」は正解になっています。センター入試のように、“正解は1つだけ” といった姿勢は問題だと思います。台本を渡して音読の練習をして、“暗唱できる段階”から、“応用の段階”へと進む方法だって間違っていないと思うからです。

 

(6)中西 弘(東北学院大)「[リーディング] 記憶容量を効率よく使うための読解指導」は、書いてあることは具体的で参考にはなりますが、“読解指導”に関してはこれまでも様々な議論がなされてきました。私は読解力の向上には、「学習者が自己努力によって、出来るだけ多くの英文に、耳から、また目から触れるようにする以外に方法は無い」と考えています。そして学校の授業が“自己努力”を援助するものであることは望ましいことでしょう。中西氏の示す方法が間違いとは言いませんが、他の研究成果を示されても、「第2言語習得論」との関係は私にはよく分かりません。

 

(7)残りの6編は、「ライティング」「文法」「語彙」「タスク」「評価」「授業全般」と題したもので、特集の「SLA の研究成果から」という視点からはかなり離れてしまっています。これまでも繰り返された指導法上の問題点だと思いますので、執筆者には失礼ながら、私のコメントは割愛させてもらいます。

 

(8)特集の第2は、「英語外部試験の実態に迫る」ですが、本シリーズの最終回とのことで、“外部試験”が教室の指導法に与える影響を論じる記事が2編あります。これまでも、“入試問題とその指導法”については数多く論じられてきたと思いますが、「教室の英語指導は入試のためにのみあるのか」と私は疑問に思ってきました。2編の記事は、安河内 哲也(東進ビジネススクール)と根岸 雅史(東京外大)によるもので、問題点の指摘や指導方法の在り方には異論はありませんが、私には、“本末転倒ではないか”という意識が拭えないのです。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その9)(授業内容の定着)

Posted on 2014年5月19日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年6月号の特集は、第1が「授業内容の定着率をアップする」で、第2が「英語外部試験の実態に迫る③TOEIC テスト」の2つです。私は個人的には、「アップする」のような言い方を好みません。コンピュータの世界では当たり前のように使われますが、英語教育の観点からは、“前置詞”や“副詞”の “up”を動詞として使うようなことは避けるべきだと考えるからです。中途半端な“カタカナ語”が、英語学習の妨げになっていることは容易に想像出来ることです。

 

(2)特集の最初の記事は、和泉 伸一(上智大)「SLAの視点から見た『定着』の意味」です。冒頭の記事にふさわしいもので、SLA(第二言語習得論)の視点からの“定着”の問題点を分かりやすく説いていると思います。ただし、SLA (第二言語習得論)と言っても、母語の違いや指導法の違いを考慮に入れなくてはならないでしょう。簡単に言えば、英国人がドイツ語を習う場合と、日本人が英語を習う場合は大きな違いがあるということを意識すべきなのです。

 

(3)この記事では、そういう配慮もなされているとは思いますが、「(feet をfoots にしてしまう現象)だけに限らず、(文法規則を拡大して当てはめてしまう間違いは)文法形態でも確認されている」(p.11 左欄)という記述は不適切な言い方です。“feet” を “foots” とするのは、“文法形態”ではないということになるからです。上げ足を取るようですが、言葉の使い方を論じる以上は正確を期したいと思います。

 

(4)根岸 雅史(東京外語大)「『定着』の測り方――いつ、何を測るか」は、テスティングの専門家が書いているので説得力があります。執筆者はかねてから、教えた直後にテストを行うのではなく、しばらくしてから行うテストを“時間差テスト”と呼んで実行を奨励していますが、定着を図るためにも大事なことだと賛同します。

 

(5)井口 実千代・鈴木 卓(東京工業大附属科学技術高校)「『英語で授業』で生徒の運用力は定着したか―科学技術高校での実践」は、興味あるテーマで、結論を早く知りたいと思う読者は少なくないでしょう。記事にも、「『英語で授業』の効果」が述べられていて、「この1年の取り組みで、英語での問いかけや指示に対する反応は格段とよくなった」とあります。しかし、私は、それは必ずしも“授業を英語で行ったから”とは言えないと思います。執筆者の結論はかなり楽観的で一般性が弱いように感じます。この学校が、SSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)として実践してきたことだけに、余計にそう感じるのです。

 

(6)会田 裕子(東京都稲城市立稲城第五中)「3年間を通したスパイラルな定着指導―動詞の活用を帯活動で」は、学期ごと、学年ごとの指導計画を立てて、それに基づいて指導している様子はよく分かります。“スパイラル”というのは40年ほど前にも言われたことがあり、私の理解では、「上から見ると同じところをぐるぐる回っているように見えるが、横からみると少しずつ登っている(学習が進んでいる)状態のことでした。執筆者の説明は特にありませんが、この方式の最大の障害は、“時間不足”です。現在の特に公立中学で、十分な指導時間があるとは思えないのです。そういう問題点にも触れて欲しかったと思います。

 

(7)林 幸伸「ライティングで定着の好循環を促す―ディクトクロスを使って」は、“ディクトクロス”の解説はなされていますが、結論的には、「学習内容の定着に最も大切なことは、毎日練習する継続性です」とあって、「それが出来ないから苦労しているのだ」という英語教員の不満が聞こえてくる気がします。“ディクトクロス”とは、「Wajnryb (1990) によって提唱された、「統語処理および文法の意識化、中間言語と目標言語の認知比較を促す(村野井:2006)と効果が期待できる練習法です」とありますが、ここでこんな知識を持ち差す必要性は私にはよく分かりません。統語処理、文法の意識化、中間言語、認知比較など調べるべき用語が多過ぎるからです。

 

(8)西村 秀之・梶ヶ谷 朋恵・阿部 卓(横浜市立南高校附属中学)「教科書を繰り返し使って言語材料の『定着』を図る」については、学期毎の、そして年間の授業計画を作成し、それに基づいて授業を実践している様子は分かります。しかし、一般の中学校では“同じ教科書を繰り返し使う”だけの時間が取れない悩みが大きいのではないでしょうか?

 

(9)磯 達夫(東京電機大)「Multi-Word Units の『定着』」では、まず Multi-Word Units の説明があって、指導上は、「単語をまとまりとして意識させることが重要」と述べています。それは分かるとしても、「 fit as a fiddle(とても元気で)や few and far between (きわめて稀な)などは、発音練習を通して定着をはかりましょう」とありますが、生徒が「どうしてそんな意味になるのですか」と質問したら、どう応対すべきでしょうか?予習の段階で、辞書指導までしておく必要性があると思いますし、“どの程度の学習者を想定してなのか”を最初に述べて欲しかったと思います。

 

(10)植野 由希恵(埼玉県戸田市立戸田中学)「発達障害と向き合う授業での『定着』」は、タイトル通りに、発達障害のある生徒たちを指導する場合の注意を述べたものです。大事な問題とは思いますが、別の号の特集記事にしてはどうでしょうか?特に英語教員を目指す大学生や経験の少ない英語教員には未知なことが多い事柄ですから、“定着の問題点”で一緒に論じるには大きすぎるテーマではないでしょおうか?

 

(11)村越 亮治(神奈川県立国際言語文化アカデミア)「CAN-DO リストで定着を実現する」は、指導方法の問題です。ただし、執筆者も指摘している通り、“CAN-DO リスト”は文字通り、生徒が出来ることを前提に作られているはずですから、指導上必要な前提条件でしょうが、それほど確定的な指導資料になっているとは私には思えません。うまくいっている実践例ばかりでなく、失敗例を挙げて貰えば、問題点が更にはっきりしたと思います。

 

(12)特集の第2は、TOEIC テストのねらいと受験記からなっていますが、受験しようと思っている読者には参考になるでしょう。余談ですが、どのラジオ番組だったか忘れましたが、「英語の成績を重視する会社の姿勢」を話し合っていました。社内では日本語を使い、海外の出張所も支社もない会社がどうして英語を重視するのか」というわけです。「単に“かっこういい”と思っているだけではないか」「“将来役に立つ”と言ったって、学校で習った英語など使う機会が無ければ、すぐに錆ついてしまうだろう」といった意見が記憶に残っています。

 

(13)今回の特集では、定期テストに関する連載記事や、「ユニバーサルデザインの外国語活動へ」といったリレー連載があったりして、特集の焦点がボケて見える感じがしました。それと、ここ数年で、学校制度がかなり急激に変化しているようですので、近いうちの特集では、“学校制度の変遷”といった企画をしてもらえると有難いと思いました。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その8)(「生徒の間違い」と「英検1級」)

Posted on 2014年4月17日

(1)今回の第1特集は、「生徒の『間違い』から何を学ぶか」です。最初の記事は、田尻 悟郎(関西大)「生徒の『間違い』から学ぶものとは」という、総論に相応しいものです。私は40年ほど前に、田尻氏が中学校で教えていた頃の授業をビデオで拝見したことがありますが、“名人芸”と評判の高い、細かい配慮のある見事な授業だった記憶があります。

 

(2)今回の記事も読み応えのあるものですが、私が気になった点が1つあります。生徒の犯す間違いの具体的な例として、「because の前でピリオドを打ち、because を大文字で初めてしまうミス」とありますが、その原因をもっと考察すべきだと思います。今の教科書には会話文が多いので、例えば、”Why is Bill absent?”  “Because he has a cold.” のような例があるでしょうから、because を大文字で書くのも止むを得ない点があるのです。“話す英語”と“書く英語”の違いを、どの時点で、どの程度まで教えるかは、今後も教師にとって大きな課題なのだと思います。

 

(3)次の丹藤 永也(青森公立大)「中学生の英作文によく見られる誤答とその指導について」は、和文英訳の誤答例として、“納豆は嫌いなんだ”→Natto don’t like.” や、“昨日はとても疲れたよ”→Yesterday was very tired.” などを示しています、こういう間違いは、音声による訓練を十分にしないで和文英訳をやらせることから生じる間違いだと思います。さらに、句読点やスペリングに間違いが無いのであれば、そこは誉めてやるべきでしょうし、指導者の反省として、まず音声による訓練を十分にやらせることを考えるべきです。

 

(4)ここから以後は、執筆者には失礼ですが、どれも長い題名ですので、お名前と肩書だけにして、私が気付いた点を指摘させて貰います。“印南 洋”(芝浦工大)は、 テストを小テスト、定期テスト、英検のような外部試験などに分類して解説しています。適語選択問題では、I was (   ) busy to eat dinner.. を生徒が間違って”so” を入れた場合は、「“so busy that I couldn’t eat dinner.” という表現と混同していることが分かります」という趣旨のことを述べていますが、この推測は正しいとしても、もっと問題点を明確にできるテスト問題にする工夫をすべきだと思います。

 

(5)“村野井 仁”(東北学院大)は、「誤りと文法指導」を論じているのですが、“第2言語習得論”の本も書いている人ですから、理論的、抽象的になるのは止むを得ないとしても、問題の例では、日本語がおかしいと思います。例えば、「友人に Cathy 先生が来るかどうか尋ねて下さい」;回答例にDo you know if / whether Cathy will come or not.” とありますが、どうして “Do you know…? から始めるのでしょうか?おかしな例です。中高生は、AET と話す時に、男性の先生ならば、Mr. Smith 、女性の先生ならば、Ms. Smith(人によっては、Miss か、Mrs. を好む場合がある)と呼ぶように教わっていますから、もっと実状に合った例を示してもらいたいと思います。

 

(6)“加藤 美枝”(岐阜県立斐太高校)は、生徒にコミュニケーション活動をさせる中で、生徒が犯す過ちへの対処法を述べています。本当は、「コミュニケーション活動とは何か?」という問題から論じてもらいたいというのが私の期待でした。執筆者は細かい授業のステップに応じて、それぞれの段階の問題点を記述していますから、同じような学力の生徒を指導している教員には参考になるとは思いますが、一般性は低いのではないでしょうか?

 

(7)“能登原 祥之”(同志社大)は“学習者コーパス”から生徒の誤答の種類や原因を知ろうとする試みです。中1の例として、”Yesterday, I go to Akihabara with my father.” を示して、「中1で過去形を習っていないことが原因の1つでしょう」と言われても、「そんな当然のことを事前にコーパスを使って調べる必要があるのだろうか」というのが多くの教員の持つ疑問ではないでしょうか?現在では多種多様なコーパスが実用化されていますが、何を基準に作られたコーパスで、何の目的で利用すべきかを明確に意識しておかないと時間と労力の無駄になってしまいます。

 

(8)“森 博英”(日本大学)は、小学校の外国語活動での「生徒の間違い」をどのように考えるべきかを論じたものです。小学校からの、または幼児からの英語教育の実施には賛否両論があります。その点を無視して、細かい留意点を論じても一般性に欠けると思います。この点は、執筆者に対してよりも、編集者の配慮に注文をつけたくなります。

 

(9)“鈴木 真奈美”(法政大)は、まず「第二言語習得理論」について解説をして、特にライティングについての誤りの実例を示しながら、個々の学習者と教員の要因について論じています。日頃、中学や高校での指導に追われている教員にとって、どこまで必要とされる知識なのか私は疑問に思います。「第二言語習得理論から学ぶこと」といった特集をするほうが有効でしょう。大学教員の記事には、かなり専門的な参考文献が挙げてありますが、今回の特集のような場合は、中高の教員にはすぐに必要なものばかりと思えません。割愛して欲しいと思います。こういう特集で、「発音の誤り」に関する記事が1つもないのには、私は大きな疑問です。発音に関して紙面で論じる困難さは分かりますが、問題点の指摘くらいは出来ると思います。

 

(10)特集の第二は、「英語外部試験の実態に迫る」で、今回は英検1級の受験の心得と経験談ですので、特に批評することはありません。受験しようと考えている人には参考になる記事です。なお関連して、4月号の特集に関する私の批評も参考にして頂きたいと思います。(この回終り)