言語情報ブログ 語学教育を考える

日英語言葉のエッセー(その10)(“熟語”の定義)

Posted on 2014年5月26日

(1)だいぶ以前のことですが、あるテレビの番組で、中学、高校レベルの入試問題を模した問題を出して、若いタレントたちに答えさせていました。出題の中には、「次の空所に一から九までの漢数字のいずれかを入れて熟語にしなさい」というのがありました。例:「夫婦は( )心同体」→「一心同体」

 

(2)ところが、ある女性のタレントが、「“熟語”って何ですか?」と尋ねました。司会者が何と応じたかは覚えていませんが、急に尋ねられたら困る人が多いと思います。私もすぐには思い付きませんでした。そこで、広辞苑で“熟語”を引いてみますと、「①二つ以上の単語または2字以上の漢字が結合してできた語」として、“夜明け”、“買物”、“読書”などを例として示していました。2番目の定義としては、「②(idiom)一定の言いまわしで特有な意味を表す成句、慣用句」とありました。しかし、“買物”や“読書”を“熟語”と感じる人はあまり多くないだろうと思いました。

 

(3)2番目の定義のように、「一定の言いまわしで、特有な意味を表す成句」ならば、「そうだろうな」とは思いますが、“特有な意味”とか、“成句”の例はすぐには思い付かない人が多いでしょう。英々辞典(オックスフォード現代英々辞典)で、“idiom”を引いてみましたら、“a group of words whose meaning is different from the meanings of the individual words” とありました。(試訳)「幾つかの単語の集まりで、その意味するものは、その集まりの個々の単語が意味するものと違うもの」ということでしょうが、「分かりやすい」とは言えない気がしました。「意味の定義」は簡単ではありません。

 

(4)話は変わりますが、今朝(2014年5月25日)のフジテレビの 「新報道2001」では、終りの方で、政治問題と離れて、「日本にいるイギリス人一家が、“日本を食べる”とか、“東京を食べつくす”と言って、日本食の素材を丹念に探し廻っている話でした。父親のイギリス人は、コックとしての経験があるようですが、海苔1枚にしても、「産地によって味の違いがある」と言っていました。

 

(5)このイギリス人の書いた本は、マイケル・ブース著/ 寺西のぶ子 訳『英国一家、日本を食べる』(亜紀書房、2014)として出版されているようです。インターネットの書き込みによりますと、「日本食の良さをイギリス人に教えてもらった」と、概して好評ですが、「訳本はかなり省略があるので、英語の分かる人は英語版を読んだほうがいい」というコメントもあります。私は、まだどちらも読んでいませんので、これ以上この問題は論じられないことをお断りしなければなりません。

 

(6)テレビの画面では、マイケル・ブース氏の英語は、ほとんど日本語に吹き替えられていましたので聞くことが出来なかったのですが、“eat Japan” (日本を食べる)とか、“eat Tokyo completely”(東京を食べつくす) といった表現がどこまで普通の英米人に通じるのかを知りたい気持ちがありますので、少し時間をかけて調べて見たいと思っています。(この回終り)

日英語ことばのエッセー(その9)(アメリカ人に学ぶ日本語)

Posted on 2014年5月2日

(1)読売テレビ(関東地区では日本テレビと同じ)に、「秘密の県民SHOW」(放映は不定期)と題する番組がありますが、私はこういう英語まじりの表記は好みません。それはともかく、この番組では都道府県のあまり知られていない食べ物や生活習慣を話題にするのですが、例えば、「富山県ではこんな食べ物が珍重されている」と司会者が言うと、富山県出身のタレントが、「そんなもの聞いたことも食べたことも無い」と言い出して、大騒ぎになります。明治4年(1871)の“廃藩置県”以来、すでに120年以上経っているわけですが、同じ県民でも知らない文化があることは珍しくないようです。

 

(2)アメリカのように大きな国では、地域によって食べ物や生活習慣が異なるであろうと日本人の多くが考えます。事実、ある地名や食べ物に含意されるものは、一般の日本人には分かりにくいものがあるようです。そういう微妙な差異については、マーク・ピーターセン『心にとどく英語』(岩波新書、1999)に詳しく解説されています。日本人の英語学習者は、英語の単語や文法ばかりでなく、こうした文化的な違いも学ばなければなりません。

 

(3)例としては、 “Please don’t give up.”は、日本の中学生でも分かるであろうが、”Don’t give up on me now.” はどうであろうか、とピーターセン氏は関連のある映画の場面に言及しながら解説しています(p. 56~)。 こういう“on me” は、“迷惑の on”として、「今度あなたが諦めたら、私が困るのよ」という意味になると説いています。

 

(4)話は変わりますが、TBS ラジオの「荒川 強敬デイキャッチ」(平日午後3時半~18時)という番組では、山田 五郎という評論家が出演(木曜日)しています。展覧会や博物館など文化面の情報に強い人です。ある日の番組で、「近頃は学生たちが、“国際的な仕事をしたい”とか、“国際的に通じる英語を学びたい”といったことを言うので、和英辞典で“国際(的)”を引いてみると、“international” くらいしか出ていない」と不満を述べていました。この問題は和英辞書の問題というよりも、日本人の英語に対する姿勢に関係があると私は思っています。そして責任は英語教育にあります。

 

(5)日本人の日常生活では、「正直に言うのも“なんですから”」と言葉を濁すことがよくあります。聞いているほうも分かったような顔をします。英語話者でも発話の途中で、“you know….” と言いながら、ウインクをすることがありますが、何を言いたいのかは、聞き手に明確に推測がつく場合が多いと思います。

 

(6)ところで、日本語の達者なトム・ガリー(Tom Gally)氏(東大教授)には、『英語のあや』(研究社、2010)という著作があります。副題には、「言葉を学ぶとはどういうことか」とありますから、日本人学生のような、外国語(異言語)として英語を学ぶ生徒、学生を視野に入れていることは確かです。実は、私も英語辞書の『フェイバリット』シリーズ(東京書籍)の責任者として、ガリー氏には大変にお世話になった一人です。

 

(7)ガリー氏は上述の本の中で、「新宿あたりを歩いていたら、アジア系の外国人と思える男性に、“Can you help me? I’m looking for the department store.” と言われて、20年以上も日本に住んでいる自分がすぐに答えられなかったと述べています。その理由は、“the” にあるというわけです。冠詞は日本人にも難しいものですが、“the” が付けば、“相手も知っているデパート”を意味するので、ガリー氏は、「どのデパートだろうか」と考えてしまったというわけです。

この章のタイトルは、「コミュニケーションの基本として、相手が何を知っているかを考慮する」です。この姿勢は以前に紹介した、阿川 佐和子氏の『聞く力』と共通するように思います。

 

(8)文科省も、「英語は英語で教えろ」などと言う前に、日本語によるコミュニケーションのあり方を勉強して、日本語の望ましい在り方を示すべきだと思います。カタカナ語混じりの最悪の日本語を使用しているのが国会議員たちですから、そんなことは望むべくもないことかも知れません。はなはだ遺憾なことです。(この回終り)

日英語言葉のエッセー(その8)(女性の人権のこと)

Posted on 2014年4月9日

(1)日本語では“カメラマン”は広く使われていて、いわば市民権を得ているようです。しかし、“カメラウーマン”は聞かれません。これはどうしてでしょうか?1つには、重い機材を担いでレポーターの後を追ったり、時には先廻りをして、急坂を登って来るところを前から撮ったりするのは大変な労力を必要とするので男性に限られるということがあるでしょう。昨日(4月4日)のNHK ラジオの深夜放送を聞いていたら、「アフガニスタンで、“ドイツの女性カメラマン”が襲撃されて死亡した」と報じでいました。“カメラマン”は“中性化”した用語にもなっているようです。

 

(2)カメラマンの仕事が、体力だけの問題であれば、女子プロレスラー並みの女性を雇うことも不可能ではありません。現に、お笑い番組やコマーシャルによく出演している佐々木健介・北斗晶 夫妻のようなプロレス出身のタレントもいます。女性の進出を社会問題として考える場合には、私はもっと根深い日本社会の状況を考察する必要があると思うのです。

 

(3)吉川裕子『アメリカン・ウーマン』(講談社現代新書、1979)という本があります。発行はもう今から30年以上も前のことですが、アメリカ建国以来の女性の進出とその問題点を解説しているものです。当時は、アメリカの主婦たち(”housewives”)が自分たちの立場に疑問を抱き始めた頃で、著者はその動きを詳しく説明しています。そしてそれは、長く、つらい道のりだったのです。

 

(4)アメリカの独立宣言は、トーマス・ジェファソン(Tomas Jefferson)によって書かれたとされていますが、最初の “All men are created equal.” について吉川氏は、「この men は“男”であって、女性は除外されていた」と述べています。従ってこの文は、「男性は全て平等な状態で生まれてくる」とでも訳すべきかも知れません。著者は、「当時の女性には参政権はなく、土地やその他の財産も持てなかった」とも述べています。

 

(5)古代から狩猟民族であった人たちにとっては、「狩りをするのは男性」で、「家事をするのは女性」と決まっていたようです。農耕民族は、男女協同で働きましたが、家事と育児はやはり女性の仕事だったと思われます。そういう長い歴史が特に女性には不利な状況を作り出したと言えるのでしょう。日本は敗戦(1945)後、アメリカの民主主義を真似してきたのですが、女性が参政権を得たのは、ニュージーランドが最も早く(1893)、アメリカ(1920)、イギリス(1926)とされています。

 

(6)日本では、市川 房江(1893—1981)のような先駆者がいて、女性の参政権のために闘ってきた歴史があります。市川 房江は、民主党の菅首相を「総理の資格が無い」と批判したのは私にも記憶があります。最近のニュースでは、女性による連続殺人事件とか、理化学研究所の論文捏造事件のように、女性が主役の事件が多いのはどういうわけでしょうか。

 

(7)私の持論は、「日本人はお人好しであること」ですが、その裏面では、「男性優位で、女性を隷属的に見る習慣が身に付いている」ということでもあります。テレビの画像をよく見ていると、“男性カメラマンの視点からの映像”が多いことに気づくはずです。また、言葉の問題もあります。第2次世界大戦の最中の大本営発表では“退却”を“転進”と誤魔化し、“全滅”を“玉砕”と美化して戦意を煽ったのです。

 

(8)戦後も、その癖は直らずに、敗戦→終戦、占領軍→進駐軍のように言い換えていました。こういう言い換えを一概に悪いとは言えないとする見解もあるかも知れませんが、ことの本質を見誤る恐れは大きいと私は思います。最近のように、“完全に”と言えばよいのに、“パーフェクトに”などと、政治家や評論家が口にするようでは、日本人の言語感覚は麻痺してしまうであろう、と私は心配します。(この回終り)

「日英語ことばのエッセー」(その7)(“言語習得の常識”とは?)

Posted on 2014年3月4日

(1)今回は、白畑知彦(静岡大)編著『英語習得の「常識」「非常識」―第二言語習得研究からの検証』という書物(大修館書店、2004)を参考にしながら、英語教育の問題を考えてみることにします。なお上記の書物には、若林 茂則(中央大)、須田 孝司(仙台電波高専)の両氏も著者として参加しています。職名は本の発行時のものです。

 

(2)この書物は、A5版、179ページのもので、参考点を挙げるだけでも数が多過ぎますから、今回は私の主観で、最初のほうから少し選ばせてもらうことにします。白幡氏は、「はじめに」のタイトルに「あやふやな説にだまされないために」と付言して、そういう例として、「たいていの日本人は英語を学ぶとき左脳で学ぼうとします。でも言葉は本来右脳で学ぶもの」(原文のまま)を示しています。これは、英語教育関係の雑誌の広告にあったキャッチコピーとのことです。

 

(3)英語を学ぶ、または学ばせられる中学生は、右脳か左脳かを意識することはないでしょうし、「英語を学ぶためには右脳を使え」と言うような教師の例も私は知りません。一般的に言って、意識しにくい脳の働きなどは、専門家に言われると、「そんなものか」と思う程度のことはあると思います。女性のよく試みるダイエットにしても、いろいろな説があるものですから、実践する女性は悩むことが多いようです。言葉の問題に似た点があります。

 

(4)余談はさておき、本題は「英語習得」のことです。本書では、第1章として、「母語習得について考える」として「母語は模倣によって習得するのか?」という問題を取り上げています。「幼児は親や周囲の大人たちの言葉を真似して覚える」というのは、かなり広く信じられていることであろうと推測できます。

 

(5)私は、まず“聞き取る能力”と、“発話する能力”は分けて考えるべきだと思います。そしてこの原則は、外国語(異言語)の学習の場合にも共通点があると思います。特に最近強調される「早くから英語を話せるようにしよう」というのは、“間違った説”だと考えるべきです。白畑氏は、英語を母語とする幼児の言語的発達段階を紹介(p. 5)していて、模倣によって発話出来る部分は非常に限られていると述べています。そして結論的には、「母語(の文法)習得の完成時は世界共通」として、この習得は5、6才で完成し、知能指数や一般学力の指数とは関係ないとも述べています(P. 6)。

 

(6)常識的に考えても、幼児の周囲の大人たちが常に“文法的に正しい文”を話しているとは限らないことは容易に想像出来ます。それなのに、幼児が母語をかなりの程度正確に習得出来るのはなぜであろうか?というのは、自分の子を育てたり、周囲の幼児をよく観察したりしている大人には自然に生じてくる疑問であろうと思います。そこで、白畑氏の書物では、「生まれつき備わっている言語習得能力があるのか?」という問題を検証しています(p. 11)。

日本語の例では、a.「太郎はテレビを見たい。」、b.「太郎はテレビが見たい。」を示していて、日本語話者はどちらも正しい文と認識するが、a.「健は旅行の日程を決めている。」、b.「健は旅行の日程が決めている。」となると、b.は不適格な文だと分かる、というわけです。

 

(7)しかしながら、私は、こういう不適格な日本語は、学問的研究の成果に関係なく、広く使われていると思わざるを得ません。特にひどいのは、国会の中継で耳にする議員たちのでたらめな日本語です。敬語の間違いは別としても、「今の答弁は私の質問を答えていません」とか、「予定を変えると言いながら、実際は予定を変わっていないではないですか」のような間違いは枚挙にいとまがないほどです。英語教育に限らず、日本語の教育も見直さなければならないのが現状であろうと思います。

 

(8)見方によっては、文法的に不適格な文でも、通じ合えるというのが日本文化であって、そういう“おおらかさ”を大事にすべきではないか、という見解もありますが、私は同意出来ません。学校教育の基本問題に関わることだからです。したがって、この問題は、今後も考え続けるつもりです。(この回終り)

「日英語ことばのエッセー」(その6)(“聞く力”とは何かを考える)

Posted on 2014年1月23日

(1)私は“ベストセラーの本”というものは、すぐには読まないことにしています。“1発芸人のギャグ”のように、その1冊だけで終わってしまうものが少なくないからです。しかし、阿川 佐和子『聞く力』(文芸春秋、2012)には興味をそそられました。私が若い頃に、彼女の父親の阿川 弘之氏の作品を読んでいましたから、父親の DNA が彼女にどのように伝わっているのかにも関心がありました。

 

(2)『聞く力』は、2012年、2013年とベストセラーを続けて、「150万部を突破」と宣伝されています。彼女は、雑誌『週刊文春』の対談を約20年も続けていて、対談の相手は千人に及ぶとのことです。しかも、本人は非常に謙虚で、「新書本のような学問的な本など書く柄ではない」と最後まで出版をためらっている様子が「まえがき」に書いてあります。

 

(3)阿川さん(父親の阿川氏と区別するための呼び方です)の本の前に読み直しみたいと思ったのが、安井 稔先生の『新しい聞き手の文法』(大修館書店、1978)でした。先生に教わったのはもう60年も前のことですが、その頃から先生は眼がご不自由で、厚いレンズの眼鏡をかけておられました。その後ほとんど全盲に近くなられたとのことでしたが、ある大学の学長になられたり、90歳を超えてからも新しい本を出版されたりして、その精力的な活動には頭が下がるばかりです。

 

(4)ここでは英文法のことを詳しく論じる余裕はありませんので、安井先生が、“新しい聞き手の文法”の定義を“はしがき”で述べておられますことを簡潔に紹介します。その要旨は、英語を外国語として理解する立場であり、そのための文法を“聞き手の文法”としたということです。つまり、私たちが新しい人と話す時は、“相手が知っていると思われること”と、“知らないであろうと思うこと”を区別して話しますが、“聞き手”の側からの文法を解説しているのが、『新しい聞き手の文法』なのです。

 

(5)私は、阿川さんの『聞く力』を読んで、彼女が、安井先生の言われるようなことを意識しているような書き方をしていることに特に興味を感じました。日本語の「聞く」(listen)という動詞には、「尋ねる」(ask)という意味もあって正にコミュニケーションの基本なわけです。しかも、阿川さんの相手はいつも会っている友人や知人ではなくて、それぞれの分野の、しかも初対面の専門家なわけですから、ずいぶん緊張することだろうと思います。学校の教師はそういう機会に恵まれることは少ないので、つい“上から目線”で生徒に接してしまうことが多いのではないでしょうか。そういう態度を反省する意味でも、『聞く力』は読むべき書物だと思います。

 

(6)この本には35の項目がありますが、その23番目には、「初対面の人への近づき方」というのがあって、彼女なりの方法を述べています(p. 161~)。1つは、「相手の様子をよく観察する慎重派」、2つ目は、「自分から積極的に声をかける積極派」。というわけです。阿川さん自身は、「だいたい2番目のタイプに近い」としていますが、「会話のリーダーシップをとるほどの学識や教養もないので、てれ隠しに笑顔をふりまいて、必要以上に元気なところを見せる」といった趣旨のことを述べています。

 

(7)彼女は、テレビの番組にも出ていますから、その率直な話しぶりはご存知の方も多いと思いますが、対談の実際は、『阿川佐和子の世界一受けたい授業』(文芸春秋、2012)にかなり収録されています。対談の相手は、小澤征璽、五木寛之、養老孟司、市川海老蔵といった名士たちです。なお、この本には、作家の村上 龍氏と阿川さん親子を加えての鼎談も載せてあります。

 

(8)上記の鼎談の主題は「日本語について」で、阿川 弘之氏が、最近の言葉遣いについて、怒りを示しています。例えば、“こだわり”という表現は、「僕の言ったことに何時までもこだわるなよ」と言うなら許されるが、「最近聞かれる“美味へのこだわり”とか、“平和解決へのこだわり”といった言い方はおかしい」というわけです。

 

(9)“日常のことば”というものは、生き物ですから、時代と共に変化するということは認めざるを得ない点があります。拙著の『ブログ放談集』でも問題にしましたが、「日本付近は高気圧に覆われて・・・・」も私は違和感があるのですが、多くの日本人が違和感を持たずに口にするものですから、今では“正しい言い方”になっているようです。ちなみに、『明鏡国語辞典』(大修館書店、2009)は、「入口の付近が混み合う」の例を示しています。

 

(10)学校の授業では暗記、暗唱も必要でしょうが、言葉遣いの成否を考えさせるような授業を加えるべきではないでしょうか。特に英語の授業では、生徒の頭の使い方はそれぞれ違うことを教師は意識して教えるべきでしょう。そのためには、教師に“ゆとり”を与えるような行政的対応が必要です。現状では、「法律で縛りつければ、悪い教師を排除できる」と考えているようで、憂慮に堪えません。言葉遣いの難しさは、政治家がまず正しく認識すべきです。靖国参拝の後も、「私の言うことが理解出来ないのは、相手の能力不足だ」と言わんばかりの安倍首相の強気に危険性を感じるのは私だけでないと思います。(この回終り)