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「日英語ことばのエッセー」(その5)(“訳すこと”と“文化の伝達”)

Posted on 2014年1月8日

(1)英語の文章を訳す場合に、表現の裏に英語話者でなければ分からないような文化の問題があることはよく経験することです。英語の授業では教師が説明を加える程度で終わることが多いと思いますが、「それで本当に英語を教えたことになるのだろうか?」という疑問は教師自身が常に問い続けるべきことだと思います。もちろん短時間で解決できるような簡単なことではありません。

 

(2)マーク・ピーターセン『続日本人の英語』(岩波新書、1990)に次のような趣旨のことを述べた個所があります(p. 27~)。ニューヨークやハリウッドの人たちにとっては、“カンザス州”(Kansas)のイメージは、「木さえ少ない片田舎で、トウモロコシ畑ばかりしか浮かばない」。そして、日本人にとって厄介なことに、“カンザス”は有名な映画やミユージカル(例えば『オズの魔法使い』)などにはよく出てくると言うのです。

 

(3)大都会の人間が、“田舎者”をバカにすることは、多くの国で見られる現象でしょうが、それが人種差別などに繋がるとしたら、大きな問題です。映画の吹き替えや字幕のように、訳す場合の制限が大きい場合は、誤解を招かないように短く訳すことは至難の技でしょう。したがって、英語の授業では、十分な時間を取って、説明をしておく必要があるのです。

 

(4)私事になりますが、私は1956年にミシガン州から南部のニューオリーンズまで旅をしたことがあります。その途中でカンザス州カンザス市に立ち寄りました。ちょうどクリスマス・イヴでしたが、大学からの連絡を受けたホスピタリティ・クラブの婦人が出迎えてくれました。「クリスマスは各家庭で祝うので留学生を招くわけにはいかないが、ちょうど日本をテーマにした映画を上映しているのでそれを見て過して欲しい」とのことでした。映画は『八月十五夜の茶屋』(“The Teahouse of the August Moon”)というアメリカ映画でした。細部は覚えていませんが、沖縄を占領したアメリカ軍の将校たちの話で、文化の問題では違和感を覚える箇所がいくつかありました。

 

(5)かなり前の漫才で、「昨日はよくしゃべるおばさんに叱られたよ」「お前よりよくしゃべる人間がいたのかね?」「そうなんよ。相手は大阪の“おばはん”やった」。ここで、日本人の観客はどっと笑うわけです。私が指導したアメリカからの留学生は、その笑いの意味は分かりませんでした。下線の部分を“She was my aunt in Osaka.” と英訳していたのです。これではおかしくとも何ともありません。“文化の問題”は、伝えるどころか、理解することだけでも大変に難しいのです。テレビのバラエティなどでは、「日本人がなぜ大笑いするのか分からない」とこぼすアメリカ人は少なくないと思います。もっとも、意味のない馬鹿騒ぎもテレビでは多過ぎますが。

 

(6)ところで、文科省の方針である、「話せる英語教育を」という方針には全く賛成出来ません。外国語を話せるようにするためには、教育環境の整備と個人の努力を前提にすべきだと私は考えます。「教員を法律で縛れば話せる英語を教えるだろう」とか、「10年もやって、話せないのは英語教員のせいだ」とか言っている間は、日本の英語教育は全く無意味に終わると思います。

 

(7)日本では2回目のオリンピック、パラリンピックを迎えるのに、「おもてなし」が大事だなどと大騒ぎをしていますが、50年も前にアメリカの「おもてなし」(hospitality)を経験した私にほ、日本の「おもてなし」は、組織化されていないもろさを感じます。その原因は行政の消極性にあると思います。政治家は、個々の親切心をどのように組織化するかを真剣に考えるべきなのです。(この回終り)

「日英語ことばのエッセー」(その4)(タテマエとホンネ)

Posted on 2013年12月9日

(1)増原 良彦『タテマエとホンネ』(講談社現代新書、1984)という本があります。副題には、「日本的あいまいさを分析」とあるように、日本人の発言者や聞き手に潜む心理的な“あいまいさ”を追求している書物です。

 

(2)今回の猪瀬東京都知事が、医療法人「徳州会」から、「無利子、無担保で五千万円を借りていた」という話も、知事自身が弁明すればするほどホンネが読めるような気がしてきます。つまり「選挙に勝つための資金だった」というのがホンネだと思うのは当然のように思えます。ただし、その真相を追求できるのは警察や検察ですが、それさえ信用出来ないという不気味な世の中になってきています。

 

(3)猪瀬都知事の問題についての都民の反応は、「意外と冷静」と報じているマスメディアがありました。この辺りも日本人の“あいまいさ”なのでしょう。「都知事選挙をやりなおすのは面倒だ」というのがホンネなのでしょうか? それとも、「都知事には誰がなっても同じだ」という諦めであれば、“タテマエ”と“ホンネ”の他に、“アキラメ”というのを日本人の心的態度として付け加える必要があるでしょう。

 

(4)日本語にはもともと“表向き”という言い方があって、『明鏡国語辞典』(大修館書店)では、「公的なこと」の他に、「世間に対して取りつくろった表面上のこと」という意味が示してあります。したがって、猪瀬知事の弁明は、正にこの後者の意味にぴったりです。

 

(5)増原氏の書物では、和英辞典や『広辞苑』などの日本語辞典の“タテマエ”(主義・方針)と“ホンネ”(本心から出たことば)の説明を適切ではないと指摘しています(p.11 ~)。そして、この二つの用語の問題から、「宗教と道徳の落差」、「平均人と絶対人」といった日本人論を展開しています。その内容は興味深いものですが、ここでは割愛して、今日的な政治問題を考えたいと思います。

 

(6)「特定秘密保護法案」が参議院の委員会で強行可決された翌日の「東京新聞」の第一面には、「民主主義の否定」「議論尽くさず、ごり押し」といった大きな活字が目立ちました。マスメディアにも「右翼系」から「左翼系」まであって当然なのかも知れませんが、私は「報道する姿勢」はまず冷静であるべきだと考えています。それぞれの新聞社や放送局の主義は、“社説”とか、“編集者のコラム”とかで、テレビであれば、特集番組を組んで問題提起をしたらいいのです。

 

(7)他の例で言えば、大きな地震が来ることを十数秒前に予告出来る装置がありますが、ある時はNHK の女子アナウンサーがとてもあわてた声で、「地震が来ます!テーブルの下などに身を隠してください!」と叫んでいました。これでは、聞く人の恐怖心をあおるばかりです。難しいことでしょうが、“報道者”はまず冷静であるべきなのです。

 

(8)ラジオの場合は、テレビの場合のように文字だけを画面に流すことが出来ませんから、放送内容を中断しなければなりません。それは仕方がないとしても、あるときは、震度5弱の地震があって、NHK ラジオの放送が40分以上も中断されたことがあります。その間、続々と被害状況が入って来るならともかく、そうではなくて、同じような内容(“震度3はどこの地域”のような)をNHK ラジオが繰り返していたことがあります。その間、TBS などの民放は通常の番組に戻っていました。

 

(9)非常事態には誰でもあわてるものです。しかし、報道関係者は日頃から、様々な事態を予測して訓練しておくべきでしょう。首都圏では自治体が“災害マップ”を作って公表もしています。「そんなものを公表されると、土地代が下がる」といった反対論もあるようですが、こういう場合は、個人の利害ではなく、住民全体の利害を優先させるべきでしょう。(この回終り)

 

(前回の補足)前回の「日英語ことばのエッセー」の(8)で私は次のように書きました。

“一億総白痴化”という造語は、評論家 大宅 壮一(1900-1970)によるものですが、その後彼は“一億総評論家時代”という言い方もしている、と小林氏の本では指摘しています(p. 29)。

この記述について、旧友の宇佐美 昇三さんから、「私の調べたところでは、大宅 壮一氏が、“一億総白痴化”と言ったという根拠は無い」旨のご指摘がありました。私は単純に『現代“死語”ノート』という書物にあったことを信じてしまったのですが、宇佐美さんは、大宅氏の書いた物を丹念に調べられて指摘されているので、信頼できるものです。ここに感謝の意と共にご紹介して、ブログの読者の方々にご了解を得たいと思います。

なお、宇佐美氏は、艦船の研究家でもあり、NHK のプロデューサーとしての長い経験と、その後上越教育大、駒沢女子大で教えた経験をお持ちです。以上

「日英語ことばのエッセー」(その3)(現代の“死語”)

Posted on 2013年11月13日

(1)私の手元に、小林 信彦『現代<死語>ノート』(岩波新書、1997)という本があります。1997年頃にすでに“死語”になっている言葉について書いている本だということは題名から分かると思います。今回はこの本に言及しながら日本語の問題を考えてみることにします。

 

(2)最初から余談ですが、2004年頃、私は某私立大学で教えていましたので、学生にこの本を紹介して、「“死語”とは何か?」と尋ねてみました。ある女子学生は、「ゆいごん(遺言)のことですか?」と問い返しので、私は苦笑せざるを得ませんでした。すでに生徒、学生の学力低下が話題になり始めていた頃でした。ちなみに、“遺言”の英語(one’s will)を尋ねたのですが、知りませんでした。“will” と“shall” の区別を高校で教わって、うんざりしている学生が当時でも多かったのです。これは英語の教え方の問題です。

 

(3)英和辞典は、“a dead language” の例に“ラテン語”を示しているようです。間違いではありませんが、私には次のような経験があります。敗戦後間もなくの頃に私は住んでいた神奈川県横須賀市で楽器店のアルバイトをしたことがあります。お客はほとんどが水兵姿のアメリカ人でしたが、ある日牧師さんらしい人が3人来ました。話している言葉が分からないので、「何語を話しているのか」と尋ねたら「ラテン語だ」という答でした。そして、「それぞれ出身の国が違うので、ラテン語が共通の言葉です」とアメリカ人の牧師さんが説明してくれました。ごく限られた範囲のことですが、一部の人たちにはラテン語が “a living language” (生きた言語)である場合いがあることを知った次第です。

 

(4)「何と申しましょうか…」の始まりについては、小林氏の本に書いてあります。最近のラジオやテレビのコメンテーターの中には、やたらと、「何と申しますか」とか、「何と言ったらよいか」などと言う人が少なくありません。上記の本では、当時のプロ野球の解説者だった小西 得郎(こにし・とくろう)が話し出す時に、「なんと申しましょうか」と言ったのが広まって、「日常会話から物まねの中にまで使われた」としています(p. 22)。私は小西氏の解説を聞いた記憶がありますが、この人の言い方が広まったことには、多少の疑念があります。ただし、反論するだけの材料は持ち合わせていません。

 

(5)書いてあるものを読むのではなく、考えながらしゃべる場合は、誰でも言い方に困ることがあります。私がここで問題にしたいのは、発言者の文章全体の文法的な完結性です。

 

例1:「なんと言ったよいでしょうか、まだ結論に達していないので考慮中なのです」ならば、一応完結しています。

例2:「なんと申しましょうか、この問題には多くの意見がありましてね、私自身はまだ結論には達していないというか、どうとも言えない状態でして…」とだらだらと続いたり、途中で話題が変わったりすると、一貫性に欠ける文章になってしまいます。

 

(6)日本人には、相手の言うことの真意が分からなくても、“分かったようなふりをする”習性があります。特に相手が年上だったり、職場の上司だったりすると、「言い方が間違っていますよ」といった指摘は出来ないものです。しかし、よく理解出来ていないのに、“分かったような顔をする”というのは望ましい態度ではありません。この態度を英語の会話の場合にまで拡大してしまう日本人が少なくないと思います。

 

(7)この悪習を正すにはどうしたらよいでしょうか?まず自分がそういう中途半端な言い方を真似しないように注意することが大事です。誰にでも口癖はあるものです。特に、早口で話す時や、友人たちと気楽に話す時は、口癖が出やすいものです。1日の終りには、短いものでもよいですから、何か文章を書いて反省してみることを薦めたいと思います。

 

(8)“一億総白痴化”という造語は、評論家 大宅 壮一(1900-1970)によるものですが、その後彼は“一億総評論家時代”という言い方もしている、と小林氏の本では指摘しています(p. 29)。“情報化社会”というのは、1960年代の後半頃から始まったとされていますが、今日では情報化はますます加速しています。評論家として発言するのは結構ですが、無責任な発言が増えるのは困ったことです。

 

(9)小中から大学まで、情報化時代への対応の仕方を教える必要があると思いますが、政治家の発言を聞くと、やたらと外来語を使うことで箔が付くと考えているような人物が多いのが心配です。“言葉”というものをもっと多角的に検討し、教育の場に活かすことが先決であろうと私は考えます。(この回終り)

「日英語ことばのエッセー」(その2)(記者の問答)

Posted on 2013年11月6日

(1)新聞記者とかレポーターたちは、一般の人が入れないところへ入れて、関係者にいろいろな質問が出来ます。つまり“国民の知る権利”を国民に代わって実行してくれているわけです。しかしながら、おかしな質問も結構多くて、「そんなことまで尋ねなくてもよいのに」と思うことがあります。

 

(2)例えば大相撲の場合ですと、横綱や大関を負かした平幕の力士に、「前褌(まえみつ)を取っての出し投げはあらかじめ考えていたのですか?」とか、「後3日ありますが、どう戦いますか?」といった質問をします。当の力士は苦しそうに息を切らせて、「何も考えていませんでした」とか、「頑張るだけです」のように答えます。ほとんど聞く値打ちの無い問答です。

 

(3)プロ野球の場合には、実況担当のアナウンサーの他に、3人も4人も“ゲスト”という解説者がいる場合があります。野球は大相撲と違って、守備と攻撃の交代の時以外はゲームが進行していますから、解説者の発言が中途半端になる場合があります。テレビのバラエティ番組の影響なのか、「限られた時間内に出来るだけ詰め込もう」という意図が感じられて興味を削がれてしまいます。

 

(4)『となりのトトロ』とか、『もののけ姫』などのアニメ作品の監督として有名な宮崎 駿監督は、2013年の9月に引退を表明しました。文章とか映像で創作活動をする人には“定年”というものが無いので、珍しい例でした。その際のレポーターの質問も「引退は惜しい」という主観的なものが多くて、しつこいものでした。

 

(5)宮崎監督は、後に「私は文化人にはなりたくない。町工場のおやじでよい」と語ったそうですが、監督らしい皮肉のきいた言い方だと私は思いました。記者会見は改革してもらいたいものの1つです。“改革”と言えば、自民党が「国会運営の改革をする」と言い出したので、何事かと思ったら、「総理大臣が不在でも、国会運営が出来るようにしよう」ということで、ヨーロッパ各国の首相が国会に出ている日数が、日本よりはるかに少ないことを指摘していました。

 

(6)「そんなことを“改革”などと言うな」と私は言いたくなりました。私は国会を久しぶりで開く場合の首相の施政方針演説と、それに続く“代表質問”に対する応答などは改革してもらいたいと思っています。批判的な質問に対して、「対策は実行しつつあります」とか、「今後なおよく検討をするつもりです」といった答弁で具体性が何も無いのです。そんな問答ならば、コピーしたものを新聞社に送付するだけでよいではありませんか。

 

(7)どうして、日本の国会ではアメリカの公聴会のように、「その場で一問一答が出来るような仕組み」にしないのでしょうか。野党の質問もあらかじめ届けておいたものに限定するなんて馬鹿げています。だから答える方もあらかじめ官僚が用意した答弁を棒読みするだけになるのです。

 

(8)「野次る」は当て字のようですが、英語では「野次る」に当たる単語はいくつかあって、”jeer” とか “hoot” のような語があります。定義では、「相手をバカにして怒鳴る」という感じです。会議場などではほとんど聞かれないと思います。意味もなく怒鳴るのではなくて、ユーモアのあるからかいを言うことはあるようです。日本の場合は、議長が「不規則発言はご遠慮ください」などと注意をしますが、議長の言うことをきかない議員は退室を命じたらよいのです。

 

(9)自民党から民主党へと政権が変わった時は当選者が多くて、“常識”の無い議員が増えました。また自民党が多数党になったら、同じような現象が生じました。庶民の意思の反映は難しいものだとつくづく思います。日本は「他国からの侵略」を心配する前に自己崩壊を心配しなければなりません。残念でもあり、恐ろしいことでもあります。(この回終り)

「日英語ことばのエッセー」(その1)(日本語は面白い?)

Posted on 2013年10月15日

(1)柴田 武『日本語はおもしろい』(岩波新書、1995)という本があります。私は出版されてからすぐに購入して読んだのですが、「ことばはおもしろい」と題してもいいような感じで、日本語や外来語の様々な問題を取り上げています。今回はこの書物が提起することばの問題を考えてみたいと思います。

 

(2)著者の柴田氏は、“首都東京のことば”以外のことばを“いなか語”として論じています。それは決して差別意識からではなく、実状として東京ことばが共通語とされていることを考慮したもののようです。そして、「共通語とその他の地域語を区別することは論理的には矛盾する場合がある」としています。「例えば、舌は東京でも“ベロ”と言っても通じるが、“ベロ”を共通語とすることには抵抗を感じる人が多いであろう」というわけです。詳しくは論文として、学会で発表したいとも述べています(p. 45)が、私はその論文は読んでいません。

 

(3)首都のことばが国全体の共通語になることは果たして望ましいことなのか、どうかは議論のあるところでしょう。明治維新では、「とにかくこれからは東京(ひがしのみやこ)が中心だ」という意識が強く、御所も江戸城址へと移ったということも大きく働いたと思います。しかし、ことばの上では、東京弁が共通語になるべきだという理由はなかったと思います。

 

(4)50年ほど前に私がフルブライト教員として渡米した時は、イランからの中等教員も多くいましたが、首都のテヘラン出身のある男性教員は、出身地の違うイラン人の仲間のことを「やつらは田舎教師だ」と軽蔑していました。階級や地域差を強く意識する国民だという印象を持ちました。アメリカからフルブライト奨学金を貰っていながら、ある男性教員は「僕は病気があって手術を受けにアメリカに来たのだ」と言って、滞在期限が来ても帰国をせずにニューヨクへ行ってしまいました。日本では、「期限までに必ず帰国するように」とフルブライトの日本人の事務局長から厳しく言われていました。

 

(5)その後のアメリカとイスラム社会の関係は、イスラム社会を他の宗教の人たちが理解することはとても難しいことを教えてくれます。国際交流の障壁は“ことば”だけではないのです。日本人の多くが「英語さえ話せれば世界を歩ける」と考えがちですが、英語教育も反省すべきでしょう。イスラム社会とノーベル平和賞との関係には流血の歴史があるようですが、今回の私のテーマとずれますので、以上の指摘に留めます。

 

(6)柴田氏の書物に話を戻しますが、「桃太郎の日本語」という小見出しがあります(p. 120)。ここでは2つの問題が提起されていて、1つは、戦後はアメリカ占領軍の指示で、この童話の出版が禁止されたらしいこと。もう1つは、戦前の絵本などでは、「ムカシ ムカシオジイイサン ト オバアサン ガ アリマシタ」と書いてあったことです。後者は「人について“アリマシタ”と言えるかどうかという問題です。

 

(7)英語では、“there is 構文”の主語には人も物も使えますから、日本語のような問題は生じませんが、「人がある」というのは間違いだと思う日本人はかなりいると思います。ところがこれが実際には多く使われています。ある火災を報じるニュースで、「なおこの火事におけるけが人はありませんでした」という言い方はよく耳にします。(私は少し違和感を覚えます。「けが人は出ませんでした」の方が抵抗が抵抗を感じない言い方です)。

 

(8)こういう問題は「どちらが正しいか」ということではなく、「どちらがより普通に使われるか」という視点から考えてみるべきなのでしょう。関心のある方は、『広辞苑』で、“いる”(居る)と“ある”(在る)を調べてみてください。多くのことが学べると思います。(この回終り)