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サッチャー教育改革の功罪(2)

Posted on 2014年10月30日

自民党・民主党の英国への教育調査団(1)

 

私自身は政治や外交にはまったく疎く、国会議員の名前もあまり知らない状態だが、新聞などをたまに見ると、自民党も民社党も教育改革にはたいへんに熱心なのがわかる。だれでも教育には一言あるが、特に政治家は教育批判が大好きらしい。

 

彼らは「旧教育基本法」は「無国籍」で、日本の歴史や国柄には一言も触れられていない、国家は国民と対立する存在であり、国民を抑圧するものであるという思想がその基本にあると解釈している。これを国が教育の根幹を規定し、全面的に国が責任を持つ形に変えたいというのが彼らの意向だったようだ。

 

憲法改正こそ彼らの最大の目標であるが、まずは教育基本法を改正し、日本人の育成法を正したいと考えたようだ。そのために研究会を次々と作っていき、2006年(平成18年)12月15日の「新教育基本法」制定へともっていったわけだ。

 

1978年に超党派で「日本を守る国民会議」を結成し、それが 「日本会議」(1997年)、「日本会議国会議員懇談会」を経て、2004年に388名もの国会議員を集めて「教育基本法改正促進委員会」を旗揚げした。

 

その間「勉強会」において、京都大学の中西輝政教授等の情報提供、指導により、何度となく、英国のサッチャー首相の「教育改革」が話題になったようだ。教育は国家が責任をもつべきだ、国家統一のカリキュラムを作り、それへの達成度を厳しく査定し、成績を公表し、父兄に学校選択を許すべきだ、とするサッチャー教育改革は大いに受けたらしい。「日本の学習指導要領に学べ!」とサッチャーが言っていたと聞いて、議員たちは大いに喜んだ。

 

現首相の安倍晋三氏は、当時は自民党幹事長、あるいは幹事長代理であったが、常に活動・会議の中心にいて、教育改革に熱心であった。

 

安倍氏らは、サッチャー教育改革こそ学ぶべきモデルだとの確信にいたり、英国へ教育調査団を送ろうとの案が出た。これはどんどん話が進み、超党派で議員団を送ることになり、2004年9月26日に出発し、10月9日に帰国した。公務多忙のため、安倍晋三氏、中川昭一氏、平沼赳夫氏等は加われなかったが。

 

その成果は次の通り。

 

(1)1970年代当時のイギリスの社会

1979年にサッチャーさんが政権についたときのイギリスは、さながら経済敗戦国で、市街には板を打ち付けて閉店になっているところが多く、人々は手厚い福祉政策ですっかり働かなくなり、産業競争力を失っていた。物価は高騰し、ストライキが続発し、夜の停電は日常化し、ロンドン市内は都市機能が麻痺寸前であった。

 

ひどいのは経済だけでなかった。学園紛争、伝統的な価値観に対する反発、性道徳の乱れ、家庭の崩壊が急速に進んでいた。高福祉で他人依存型の社会で、だれも責任を取らず、いわゆる「イギリス病」の蔓延に喘いでいた。

 

(2)教育の状況

児童中心主義1944年の「旧教育基本法」では、教育の権限のほとんどすべてが地方教育局に下ろされ、教育局は校長に、校長は担任教員に任せていた。

 

統一的なガイドライン(指導要領)も検定教科書もなかった。それゆえ各教師は、それぞれ自主的で自由な、言い換えれば、勝手気ままな教育を行い、子供たちには「市民の権利」をまず教え、過去のイギリス帝国主義批判の歴史教育を推進してきた。子供たちが興味を持ちそうな「総合学習」「体験学習」の時間が増え、算数ドリルなどの基礎的な学力はどんどん落ちていった。

 

議員のみなさんはこのへんは事前学習しており、

ロンドンのあちらこちらでその追認を行い、

サッチャー改革へと目を向けた。

 

(3)サッチャーさんの教育改革

サッチャー首相は、イギリス病の克服はまず教育改革からとし、抜本的な「1988年教育基本法」を打ち出し、地方の自主性に任せていた教育を、国家の管理に移し、教育のすべての点に関して、国家が企画・主導し、責任を持つとした。

 

国家統一のカリキュラム、統一試験、試験結果の公表、親の学校選択の自由、統一試験結果のチェック、教育効果の上がってない学校の指導と整理、宗教教育(道徳教育)の重視等の施策を具体的に実行していった。

 

 (つづく)

サッチャー教育改革の功罪(1)

Posted on 2014年10月21日

サッチャー首相教育大改革を断行する

 

日本の安倍首相が惚れ込んでいて、民主党も気に入っていて、大阪の橋本市長も、これを模範にして「教育基本条例」を作った「サッチャー教育改革」とはどんなものか、これを知る必要がある。特に英語教師は、政府が目指している教育改革の模範である英国のサッチャー改革を理解し、評価し、父兄に、周りの人々に説明してやることができなくてはならないと思う。

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私など年配者の一部にとっては、昔のイギリスの教育は憧れであった。1970年から80年頃、家族を連れて英国に留学した先輩からイギリスの保育園や小学校の話を聞いた。

 

先輩の奥さんが言っていた。保育園はまるで茶の間なの。子供たちはそれぞれ遊んでいて、保母さんは紅茶など飲みながらただ見ているの。こんな状態で学校に上がったらちゃんと先生の話を聞けるのかしらと心配だったの。

 

小学校へ上がったら、これがまた茶の間なのよ。先生はひとりずつに対応して、全体で先生の話を拝聴するといったことがほとんどないの。子供たちは勝手に歩き回ってるの。

1時限が45分でなくて、70分もあるんだけど、退屈しないの。先生もひとりの子にかかりっきりになっちゃたりして。。。

 

そんなことで学校が大丈夫なのかしら。いつになっても字が書けない子や2年生になっても一桁の計算ができない子ができてしまうかなと思ういっぽうで、茶の間のような学校に憧れたことを思い出す。

 

(1)サッチャー改革以前の学校

 

日本の場合は明治維新になっていきなり全国的に小学校が作られ、それまでの寺子屋教育とは縁を切ってしまった。イギリスの場合はずーとつながっていたと見ていいだろう。

 

1880年の教育法によって、5歳から10歳までの義務教育制度が実現されたが、それまでと同じく教会の中に慈善事業のひとつとしてあった寺子屋式の無償の学校がそのままで、制度化されたようなものであった。

 

1944年の教育改革

英国では1880年の義務教育制はその後いくつかの段階を経て、1944年の教育改革によって、第2次大戦後の基本的な枠組みが成立した。

 

1. 5歳から15歳までの無償の義務教育の保障。

2. 多くは教会立の学校であったが、それを公営のものとして政府の統制下に組み込み、同時に地方教育局が管理する 公営学校を作った。

3. 幼児学校から地域センター、18歳までの延長教育までの多様な教育をすべて「地方教育局」の管轄とした。

4. 初等教育、中等教育のすべてを地方教育局が責任を持って提供し、管理する制度とした。政府・教育省はなんら監督・ 指示をしないものとしたのた。

5.制度の検討、改変は、中央教育諮問審議会による審議・答申に基づくとした。

 

以上の主旨の教育法によって、政府は予算措置はするが、教育の内容には口を出さないシステムが確立した。「地方教育局」(LEA)は、地方自治体からも独立した組織で地方教育委員会が独立の事務組織も持っていると考えるといいかと思う。この地方教育局が大きな権限を持っていたが、その権限は校長・教員に下ろして、大幅に各教員が自由に教育できるシステムであったようだ。

 

(2)1988年のサッチャー教育改革の特徴

 

サッチャー教育改革は、ひとことで言えば、公教育に統一学力テストを導入し、テスト結果を公表することで学校を競争させ、親に好きな学校を選ばせる、という「市場原理」を教育に適用したものであった。

 

すなわち、地方分権型を取っていて、統一のカリキュラムや統一教科書、全国テストといったことを、ほとんど考えたことがなかったイギリスの公教育を中央集権型へと大転換させたのだった。そして、「競争させるに限る」といったサッチャーらしい結論に達したのだ。

 

率直に言えば、サッチャー首相の目的はただひとつ、子供たちの「学力の向上」であった。これから知識社会を迎えるに当たって、「イギリス病」すなわち、経済の停滞、失業者の増大、無気力な若者、これらの原因は教育にある、教育レベルの向上こそ急務であるとした。

 

サッチャー首相は何度も「日本に学べ!」と言った。そして日本に視察に行かせて、「学習指導要領」を研究させ、中央集権的な統一カリキュラムを、一斉指導を研究させた。

 

イギリスの教育は、総合学習、体験学習が多かったが、基礎学力がないと言って、読み、書き、計算などの訓練を強調した。

 

1)全国共通のナショナル・カリキュラム

イギリスには全国共通のカリキュラムはなかった。だいたい教育のすべてにわたって統一とか全国とかいった考えそのものがなかった。確かに生徒の学力は外国と比べても低く、また経済界からも成人の一般常識・知識不足が言われていた。

 

そこで、「日本に学べ!」とばかりに、日本の学習指導要領を参考にして、教えるべき内容を標準化し、望まれる学力水準を明確に示すことにした。

 

義務教育で教えるべき内容が明確になった。以前は教師によって指導内容がばらばらで、教師のあたりはずれが大きいと言われた。それぞれの教師が独自性を出すあまり、基礎学力の指導がおろそかになりがちだとも言われた。親たちは「教育の透明度が増した」と評価した。

 

各学年、各科目の到達目標がだんだん詳しく規定され、さらに、生徒個々の成績到達目標を立てるほどになっていった。

 

2)統一学力テストの導入

イギリスにはもともと次のテストがあった。

中等教育への配分テスト(イレブンプラス・テスト、11歳で)

セカンダリー・スクール卒業年度のテスト(一般中等教育資格試験、16歳で)

大学入学資格のテスト(Aレベルテスト、18歳で)

 

それに加えて新たに始まった全国テスト。

7歳で受ける全国テスト、

11歳で受ける全国テスト、

14歳で受ける全国テスト、

よって、大学進学希望の場合は6回も全国テストを受けなければならなくなった。

 

3)学力テスト結果の公表と親への学校選択権の付与

11歳テスト、16歳テスト、18歳テストの3つについて、毎年12月に「リーグ・テーブル」(学校成績順位一覧表)が発表され、新聞各紙は16ページにもわたってそれを掲載する。その日ばかりは子供を持つ親たちは新聞を買いに急ぐ。そこには全国のすべての学校が地区別に成績順に並んでいるのである。

 

統一学力テストの成績で学校をランク付けするという冷徹な市場原理を教育に持ち込んだ。それはイギリスの教育界に「カンフル剤」を注入する役割を果たした。学力テストの結果は、学校を成績順の並べて発表され、それは新聞各紙に大きく掲載され、大きな話題となる。「ワースト・スコア―」として、最低の学校も報道される。

 

親はそれをよく見て、子供の入学先を決め、または転校先を決める。点数の悪かった学校は生徒が減る。予算は生徒数によって配分されるので、教員もどんどん減らさざるを得ないし、テコ入れがなされる。場合によっては廃校になる。

 

「ベスト・スコア―」校のある地区は地価が高騰し、経済的に豊かな住民でないと住めないといったことも起こってきた。

 

4)学校の自治の保障

イギリスの学校は昔から「ガバナー制度」といって、校長と教師、親、地方教育局職員、地域の代表で構成される「学校理事会」が運営に当たっていたが、これをさらに強化し、校長人事から予算の組み方まで学校運営のすべてを「学校理事会」に任せた。校長・教師の採用権が学校理事会に移譲された。

 

そうして採用されると、校長も教師も「発言の自由」が保障された。その気になれば、行政批判も率直に、辛辣にやれるようになった。

 

また、教師の給料も上げ、教員数も増やし、補助教員も増員し、小学校に「30人学級」を実現させた。一定の達成基準を満たした教員には、年2000ポンド(40万円)の超過給与が支払われた。

 

最大限の権限と責任を学校現場、校長に与えたと言ってもこれは、学校に「アカウンタビリティ」(説明責任)すなわち、住民に対して質の高い公教育を提供する責任と義務を求めたことになる。その責任が果たせない場合は退任せざるを得ないわけである。

 

5)学校査察機関の設置

「教育水準局」を設け、多角的な学校評価を専門的に行う。アカウンタビリティの遂行、すなわち、学校は約束しただけの説明責任を果たしているかどうかを厳しく査察された。

成績の上がらない「失敗校」は改善命令が出されたり、閉鎖を命ぜられるといった厳しさであった。

 

サッチャー教育改革は、続く労働党内閣にも引きつがれ、政権の最重要課題として、さらに強く推し進められている。

 

(3)成績の急速な向上

 

手元にある資料で成績が向上したかどうかを見てみよう。

1)11歳児の到達目標達成児の割合

1996年 1999年 2001年
英語 56.3% 69.7% 77%
算数 53.2% 68.2% 75%
科学 60.6% 77.9% 89%

 

これを見ると確かに順調に、どの科目も急速な向上が見られる。これではサッチャーから受け継いだ労働党政府も自慢げに「教育!教育!教育だ!」と叫ぶはずだ。

 

2)セカンダリー・スクールの成績の向上

1988年 1993年 1997年
5科目以上のA~C獲得者: 32.8% 43.3% 46.3%
5科目以上のA~G獲得者: 79.3% 85.6% 87.5%

 

ご覧のように、上の方の5科目以上合格点の生徒が45%を超え、下の方の成績中級者も成績の向上が見られる。

 

サッチャー内閣も、メージャー内閣も、続く労働党内閣も改革の方向に間違いはないとして、いっそう強力に改革路線を推し進めているのも無理はないであろう。

 

(つづく)

日本語は悪魔の言葉か?(番外編)

Posted on 2014年10月9日

日本の位置、そして、国際語としての英語の寿命

 

漢字は効率が悪い、日本語は不利ではないか、そういった話をときどき耳にする。そんなことはないよと私自身は思っているが、漢字の歴史についても、中国語についても、ハングルについてもほとんど知識がなくて躊躇していた。が、今回決心して、自転車操業で、アマゾンで資料を買ったり、図書館へ行ったり、インターネットで調べたりして自説を補強して、説いてみた。知識は孫引きが多いが、できるだけ2つ以上の典拠を求めて誤りのないように努めた。

 

1.日本の位置はどう見える

石川九楊氏に、地図を横にしてみると、大陸から見た日本の位置がわかると教えられて、日本地図を横にしてみた。(※写真1)旧樺太はほんとうに大陸に近くて、日本列島も小さく内海を囲んだ出先きのように近い。なんだ、大陸から見ると、瀬戸内海の対岸のように見えるじゃないかといった印象だ。

 

これでは、隋や唐の皇帝が倭(日本)の王が挨拶の使節を遣わすのは当然のことと思ったであろう。一般の人々はもっと親しく付き合うべきだと思う。私たちは実際以上に太平洋に出ている、大陸から離れている、アメリカもそう遠くはないと思い過ぎていると思い直した次第である。

 

関西の人、九州沖縄の人たちは、私たち関東東北の者よりも韓国が近いようだ。忘年会は釜山にしたよなどと言ってくる。中国だって近い感じだろう。

 

これが国家としての付き合いになるとそうはいかない。中国には依然として中華思想(自民族中心主義)が存在し、ごり押しをしてくる。政府には慎重な、毅然たる交渉術を願いたい。が、民間の関係ではもっともっと交流し、学校でも「中国特集」をして、理解を深めたいと思う。

 

2.母語の教科書がない

韓国は1970年に漢字を捨ててハングル化で行く大統領決定をした。しかしながら、韓国の大学では自然科学を初め多くの分野において韓国語の教科書がなく、英語の教科書を使っていることがわかった。

 

多くの日本人がノーベル賞を取ったことで、韓国のメディアは日本に追いつけと激を飛ばしている。そこで何人かの有識者が、母語で論理的に考えることができなくては、独創的な発見・発明はできないと説いている。

 

韓国も英語ではなくて、韓国語で基礎科学教育を行い、自国語で深く考えることをさせたいのだが、翻訳しようにも単語がなくて、すぐには韓国語の教科書が作れないのだ。専門用語の名詞だけでなくて、動詞もうまく訳せないのではないかと推察する。これを行うには漢語に頼るほかない。日本に学んで、漢語は復活せざるを得ないのではないかといった議論になっているようだ。

 

「科学」「物理学」「化学」といった用語はほとんど日本人が作ったもので、韓国も中国もこれを借りて使い、さらに細部の用語、「素粒子」「電子」「陽子」といったものもすべて日本人が作ったもので、韓国語にはそれに代わる訳語はない。従って、中学や高校の自然科学の教科書がそれほど論理的に整備されたものになりえない。基礎科学も大学へ行ってから英語で学ぶことになっているようだ。

 

このような記述をいろいろと読むと、日本人は漢字を使いこなすことができて、いかに幸せなことか、未来が明るいかと思う。

 

3.国際語としての英語の衰退

以前私は、英語教師のポストは、どんどん減っていき、20年後にはほとんどなくなるのではないかと書いたが、「国際語としての英語」の地位も50年後には大きく変わったものになっているだろうと思っている。

 

今回、中国の歴史と漢語の浮き沈みを見てきて、何度も自分が教えてきた「英語」のことを思った。「英語の天下」はいつまで続くのだろうかと。

 

英国100年、米国100年という説がある。イギリスの天下は100年で、第二次世界大戦で終わった。そのあとはアメリカの天下だと考えると、あと40年か50年ぐらいだ。それと前後しておそらく「英語の天下」も終わるのではないかと思われる。

 

英国のグラッドルという研究者は書いている。2050年には世界の言語階層の最上階(大言語)は、「中国語、ヒンデイー語/ウルドー語、英語、スペイン語、アラビア語」となると。

 

すなわち、英語一辺倒ではなくて、外交の、あるいは、交易の場面、場面においていくつかの言語を使い分ける時代がくると言う。世界はなべてそのような視点に立っていて、日本のように中学・高校で英語だけしか教えていない国はほとんどどこにも存在しない。東アジアにも。外国語は英語だけではないことを、英語教師の務めとしてもっと生徒に教えなければならない。それこそ国際理解教育だと認識したい。

 

 (おわり)

日本語は悪魔の言葉か?(4)の3

Posted on 2014年9月23日

8.21世紀に開かれた漢字、日本語

 

1)パソコン・ケータイの発達と漢字

世の中のIT化によってますます漢字・カナの利点がはっきしてきた。画面における視認性に優れ、意味の差が瞬時にわかり、多くの単語が漢字2字で済み、便利、正確、誤りの少なさなど利点が多い。今後の発展が大いに期待される。

 

2)繊細な文化の創造

もともとの中国の漢語は、断言言語、政治言語、男性の言語といった性格を持っていたが、日本の仮名の発明がこれを変えた。

 

「かな」は女手と言われ、平安時代に女性が世に出るに手を貸し、繊細な、美しい芸術・文化の形成に役立ち、世界が注目する作品を作り上げた。また「カナ」は明治以降翻訳紹介に大いに手を貸し、世界に目を開かせてくれた。

 

3)ルビの復活・活用

ちゃんと書けなければならない文字と読めればよい文字を意識的に分け、認識できればよい単語は大いに増やした方がよい。そのためにはルビの活用をぜひ勧めたい。小学校の教科書も漫画本のようにルビをふるべきだ。その綴りが頭をかすめるだけの単語を増やすことによって豊かな語彙を頭脳に貯えれば、少々英語力が劣っていても世界に出て、立派に仕事をしていけると私は思っている。

 

「ハカル」は「測る、計る、図り、諮る、量る、謀る、…」といったように、当てることのできる漢字がたくさんあるからと言って、やりすぎは良くない。ほどほどにしたい。

 

以上述べてきたように、漢字によって日本語の語彙面は豊かになり、本来の日本語とはすっかり違ったものになった。訓読みも発展し、今では日本語と漢字は切っても切れない関係になり、漢字によって日本語の未来は限りなく広く開かれていると言える。われわれは、漢字の利点を大いに活用して、生きていきたいと思う。

 

(つづく)

日本語は悪魔の言葉か?(4)の2

Posted on 2014年9月3日

7.漢字を捨てられない日本語

 

1)ひらがな・カタカナの発明

中国において唐が滅亡して(907年)、朝鮮にも、越南にも、日本にも独立の機運が高まったと思われる。朝鮮はハングルを発明し、越南はチューノムを作り、日本は「ひらがな」「カタカナ」を作った。それまではすべて中国が手本で、体制も文化もその模倣であったが、やっと東アジア各国は独自性を発揮し始めた。

 

「かな」は漢文を読むための補助記号として考案され、少しずつ改善されてきた。今の生徒が英語の文章の間に、単語の意味を、発音を日本語で小さくシャーペンで書き込むようなものだ。アンチョコ用、虎の巻用の隠れた文字としてかな・カナは出来ていった。

 

カタカナ、ひらがながなかったら、日本人は書くのも読むのも難しく、識字率も上がらず、四苦八苦して、東アジアの小さな遅れた島としての存在にすぎなかったかと思われる。

 

2)音読み、訓読み

音読みも長い時代にわたって中国から多くの読み方を習得し、さらに自身で遠慮なく訳語を作った。訓読みも徹底的に、広く適用したばかりか、漢語に適当な漢字がない場合は、例えば、「動」から「働」という漢字を作って、「はたらく」に当てたばかりか、「労働する」といった動詞まで作ってしまう徹底ぶりであった。

 

「行」という漢字を借りて、これを音読みとしては「コウ」(行動)、「ギョウ」(行書)、「アン」(行燈)などと読ませた。訓読みとしては「ユク」(行く)、「オコナウ」(行う)だけでなく、「アルク」「サル」「メグル」などたくさんの読みを与えたが、それは淘汰された。「ユクエ」(行方)といった当て字も作ってしまった。このようにして、日本語は中国語以上に漢字にすっかり、どっぷりとはまり込んでしまったのだ。

 

3)造語力

前にも書いたように、常用漢字2字の組合せだけでも100万語の単語を作るのは造作もないことだ。同音異義語が増えるものの読み違いはないし、聞き違いもそれほど多くは起こらない。

 

また、それぞれの単語が短くて済むのがよい。日本語では「日照権」からすぐに「嫌煙権」を作ったが、英語ではそうはいかなかった。The right to enjoy sunshine(日照権)と同じように、the right to be free from other’s smokeと表現し、やがて、nonsmokers’ right も使われるようになったが、一般の人にはそれほどなじめなかったようだ。頭字(アクロニム)でRBFOSと言う人もいる。(英米人はわれわれが理解に苦しむほどアクロニム好きだ。ことばが長くなりがちなので、アクロニム化は必要悪なのかも知れない。)

 

4)単語習得 ― 漢字の方が覚えやすい!英語は少ない数のローマ字を覚えれば、すぐに書ける、読めると言われるが、それは文字が書けたり、読めたりするだけで、単語が書ける、読めるわけではない。

2000語がわかるためには2000語を覚えなければならない。いっぽう漢字の方は1字1字に意味があるので、常用漢字2136字を覚えたということは単語を2136語覚えたのと同じ効果を発揮する。さらにこの漢字がいろいろな組み合わせで出てくるので、5000語も10000語も、それ以上の単語も、なんとなく意味の類推がつく。

 

例えば、「人類学」というのは、普通の人でも人間を研究するのかなと類推がつく。内容はわからなくても少し見当がつく。ところが、英語では anthropology と言う。これは語源が古代ギリシャ語であって、普通のイギリス人にはほとんど類推もできないだろう。phalaenopsis だって普通のイギリス人は何のことだかまったくわからないが、「胡蝶蘭」ならたいていの日本人はランの1種だろう、きれいなチョウに似た花かなと思うことができる。

 

日本では中学3年までの義務教育で習う漢字をすべて習得していれば、讀賣新聞や朝日新聞は読めるだろう。イギリスではそうはいかない。労働者の人たちは4000~8000語ぐらいの語彙力しかないので、タイムズやインデペンデントのような全国紙は読めないと言われる。実際彼らは、写真の多いタブロイド版の大衆紙しか読んでいない。

 

「数学」「文学」「音楽」といった単語も漢字を知っていればわかるが、英語では、mathematics, literature, music と1つずつ覚えなければならない。このように漢字の方がはるかに応用が利くことが多い。

 

)漢字とひらがな、カタカナ

現在日本語は、漢字が50%を超えるぐらいで、あとの半分をひらがなとカタカナが適度に占め、単語と単語の間を空けることなく、読みやすく書きやすい。中国語やかつてのベトナム語では、例えば、ドストエフスキーと書くとき、この音を1つずつ漢字で表さなければならない。これはたいへんなことだ。漢字、ひらがな、カタカナの併用はまさに理想的であったと思われる。

 

ひらがな、カタカナは仮の文字、陰の文字、女子供の文字であったので、形は任意でそれほど確定していなかった。小学校の教科書を作るためにこれを確定させたと言ってもいいだろう。夏目漱石の原稿などを見ると、例えば、「ネ」は「ネ」と書いてあったり、「子」と書いてあったりして確定してない。

 

かなは専門家が作ったものでなくて、民間で使いながら徐々に創り上げていったため、似ていてまぎらわしい綴りも見られる。(「コ」と「ユ」、「ユ」と「エ」、「ヲ」と「ラ」、「ろ」と「る」など。)

 

(つづく)