言語情報ブログ 語学教育を考える

「英語教育批評」(その72)(気になった映画の英語)

Posted on 2013年6月10日

(1)今年(2013)の5月に行われたカンヌの国際映画祭では、是枝 裕和監督の『そして父になる』が審査員賞を得ました。私が気になったのは、英訳の題名が、 “Like Father, Like Son”  だったことです。この表現は、「父親も父親だが、その息子も息子だ」というように考えられて、むしろ悪いイメージを感じさせます。ただし、『ジーニアス英和 第4版』(大修館書店)は、“Like mother, like daughter.” の例文について、《ことわざ》《略式》この母にしてこの娘あり;親が親なら子供も子供だ《よい意味でも悪い意味でも用いる》;“Like father, like son” も同じ》という解説があります。

 

(2)カンヌ映画祭に出品された映画は、生まれてすぐの男の子が病院で他の赤ちゃんと取り違えられたことを知りながら、その子を育てていく父親の苦悩の話です。“このような英語のタイトルでよいのだろうか”という疑問があったものですから、私の昔からの友人で、「日本ことわざ学会」や「日英言語文化学会」の会長である奥津文夫氏に見解を尋ねてみました。

 

(3)奥津氏はいろいろと情報をくれましたが、その要点は次のようなものです。「この映画の筋と英語の題名は、必ずしもぴったりした感じのものではないが、1987年に、“Like Father, Like Son” という題名の映画があったので、カンヌ映画祭の映画の題名も、それと同じにしたのかも知れない」とのことでした。この1987年の映画はコメディで、主役の俳優もコメディアンだったそうです。

 

(4)日本語では、“蛙の子は蛙”という諺があって、『明鏡ことわざ成句使い方辞典』(大修館書店)には、「しょせん蛙は蛙という意味合いがあるので、目上の人に対して直接使ったり、誉めことばとして使ったりするのは避けたい」という注意がしてあります。したがって、『そして父になる』という映画は、“Like Father, Like Son” という英語の題名から、“蛙の子は蛙”のような意味に取ることは避けたほうがよいことが分かりました。言葉遣いは難しいものです。

 

(5)“ことば遣い”と言えば、前回の「英語教育批評」で、「“hate speech” という用語は、英和辞典には見つからない」と述べましたが、自分のパソコンに内蔵されている『リーダーズ英和辞典(第2版)』(研究社)には載っていました。ただし、訳語としては、“憎悪の演説”とあって、語義が狭くなっています。「人種や宗教上の差別を強調する言葉遣い」とでもすべきだと思いますが、私の見たものは第2版ですから、その後改訂されたかも知れません。

 

(6)もう1つ訂正があります。前回の終りのほうで、“自民党の教育再生会議”と書きましたが、第1次安倍内閣の頃(2010)はそう呼ばれていたようです。しかし、2012 年からは“教育再生実行会議”となっています。指摘して下さった方に感謝しながら、ここに訂正いたします。(この回終り)

「英語教育批評」(その71)(“ヘイト・スピーチ”のこと)

Posted on 2013年5月31日

(1)東京新宿区の 新大久保駅周辺には、朝鮮・韓国の人たちが多く、しかも美味しい飲食店があるということで、とてもにぎやかな場所です。しかし、日本のある団体が「朝鮮人は出て行け!」とか「朝鮮へ帰れ!」と書いたプラカードを持ってデモをすることがあるので、暴力事件になることがあります。

 

(2)ここでは、“英語教育批評”ですから、まず“ことば”の問題を考えてみることにします。憎悪を含めた差別的な意識から口をついて出る“ことば遣い”を“ヘイト・スピーチ”(hate speech)と呼ぶようです。私が調べた限りでは、この表現や定義を載せている英和辞典はありませんでした。インターネットを使う人は、“ヘイト・スピーチ”で検索すると様々な情報が得られますから試してみるとよいでしょう。

 

(3)“hate speech” という場合の “speech” は、“演説”という狭い意味ではなく、“話し方”とか、“言葉遣い”という意味で、『ジーニアス英和』(大修館書店)の “speech” の項には、“We could tell from his speech that he was British.” (話し方から彼がイギリス人であることがわかった)という例文があるのが参考になります。

 

(4)“hate” には、“嫌う”という動詞の意味ばかりではなく、名詞として、“嫌悪”とか、“憎悪”といった意味もあります。したがって、“hate speech” は、特に特定の人種に対して、“差別意識や嫌悪感を持って使用することば”と考えることが出来ます。その意味では、昔から英語にある “racist” (人種差別主義者)が似たような用語と言えるでしょう。

 

(5)“人種差別”の問題となると、どうしても政治的な判断が絡んできますので、少し触れざるを得ません。“日本維新の会”の共同代表の一人である橋下大阪市長は、「どこの軍隊も必要としている慰安婦問題で、どうして日本だけが非難されなければならないのだ」という趣旨の発言をして、物議を醸したのはよく知られている通りです。この発言はまだ尾を引いています。

 

(6)弁護士というのは、明らかな殺人犯人でも、弁護をするとなれば少しでも罪を軽くさせようとする人ですから、場合に応じて必要な理屈を言うのは得意なはずです。しかし、裁判官、裁判員や殺人犯も日本文化の中の人間であれば話は通じても、慰安所の女性を、“sex slave” (性的奴隷)と捉える国際的な文化の中では通用するとは限りません。橋下氏はそういう意味では、“グローバル化音痴”であったと言わざるを得ないと私は思います。

 

(7)“国際的な視野の狭さ”という点では、自民党の教育再生会議の方針も同じようなものだと思います。英語さえ話せれば、世界のどこでも通じると考えているようです。自分たちはろくに英語を使えないくせに、すべての大学入学試験に TOEIC やTOEFL を課そうとするのは、日本の英語教育の実状を知らない人間の考えることで、英語教育どころか、日本の教育全体を破壊する愚策であると私は心配しています。(この回終り)

「英語教育批評」(その70)(「クリル“CLIL”」について)

Posted on 2013年5月20日

(1)ここ2年ほどの間に、私はネット上でいろいろ検索をしていて、“CLIL”という用語を見つけて、少し調べてみました。外国語(異言語)の教え方に関するものだとは分かりましたが、これまでの教え方と特に変わった点は見つけられなかったので、「何故わざわざ新しい用語を使って説明する必要があるのだろう」という疑問が残った記憶があります。ただし、ヨーロッパではそれぞれの国によって、外国語教育の目的や方法が異なるので、CLIL の概念も幅が広いということは認識しました。

 

(2)「英語教育」(大修館書店)の2013年6月号の特集は、「CLIL<クリル>内容言語統合型学習―『英語で学ぶ』授業の可能性」ですから、私の2年越しの疑問が解けるのではないかという期待を持って読みました。最初の記事は、笹島 茂(埼玉医科大学)「CLIL はおもしろい―背景とその可能性」です。ヨーロッパを中心した CLIL の実施状況が地図を示してあって分かりやすい記事です。CLIL はContent and Language Integrated Learning の頭文字であり、特集のタイトルの「内容言語統合型学習」のことだというわけです。でもこれだけでは、経験の浅い英語教員には、何を意味しているのか分かりにくいと思います。手っ取り早く言えば、「理科の授業を英語で行う」ことを考えてみれば良いでしょう。

 

(3)今回の特集には、座談会「日本におけるCLIL 活用の可能性」という記事(pp. 15-17)がありますから、これから読むのがよいかも知れません。最初に司会者から、「内容統合型の意義」を問われて、池田 真氏(上智大学)は、「ひとつには、英語を道具として使う必然性が出てくることです」と答えています。このことを理解するためには、座談会の前にある同氏による記事「CLIL の原理と指導法」を読むべきでしょう。そこには、定義、指導例、段階別の活用例などが示してあります。

 

(4)私自身がまだよく分からない点があるのですが、日本の学校における英語教育の場面を考えてみますと、「英語を通してある“内容”を学ぶ」という場合は、英米の生活習慣などを知ることが主な目的とされてきました。「いや、それでは不十分で、それぞれの地域のお祭りとか食べ物とかを紹介出来ることも目的とすべきだ」という意見もあるでしょう。しかし、学校ではそういうことを母語である日本語でしっかり訓練しているでしょうか。それを反省しないで、何でも英語教育に負わせようとする方針には、私は賛同出来ないのです。

 

(5)池田氏は、中学3年用の英語教科書の“落語”を教材にしたものを例にして、「落語に関する英語の記述は、わずか3行なので、CLIL の考え方に基づいて、発展的な教材を準備すべきだ」と言い、その指導例を示しています。そうでなくても時間の足りない英語教育でそこまで要求することは、「果たして現実的に可能なのでしょうか」と、私の疑問は尽きないのです。中学、高校では毎日3時間の英語の授業があって、検定教科書も現在の4,5倍の厚さがあるというのであれば話は別ですが。

 

(6)私は、新しい考え方をすべて排除すべきだと言いたいのではありません。今回の特集は、CLIL の何であるかを知るには適切で有効な記事が多いと思います。しかし、その応用の実践において、どういう障害があり、それを克服するにはどういう方法が現実的かという点の検討が欠けているのではないか、と指摘したいのです。特集の副題には、「“英語で学ぶ授業”の可能性」とあるのですから、その可能性を追求してもらいたいのです。(この回終り)

「英語教育批評」(その69)(自民党の英語教育)

Posted on 2013年5月7日

 

「自民党の考える英語教育」について

(1)5月1日の朝日新聞は、“オピニオン”という欄で、片面の三分の二ほどを使って英語教育のことを取り上げていました。その内容について考えてみたいと思います。発言者の一人は自民党の遠藤利明衆議院議員で、自民党の教育再生実行本部長です。その主張の要点は次のようなものです。

 

(2)①中学高校で6年間も英語を学んでも英語が使えない。②米国で広く用いられている TOEFL をセンター入試の英語に代わって大学入試に課すことにしたい。③その結果、英語の授業は変わらざるを得なくなる。④ TOEFL は程度が高過ぎるという声もあるが、それなら現状をどう改善するのか。より良い方法があるならば教えてもらいたい。

 

(3)一応謙虚な姿勢のように見えます。しかし、「TOEFLを国会議員の立候補の条件にしてはという声もあるが、英語が出来ないと政治家が務まらないのかどうか(問題だ)」と開き直っています。「これからの国際化の中で生きる子どもたちに英語が話せることは必要だと言っているのだ」として、「こうした主張を7月の参院選挙に自民党の公約として打ち出す」とも述べています。

 

(4)これに対して、もう一人の発言者は和歌山大学の江利川春雄教授で、全面的に遠藤議員の考え方を否定しています。その見解の要点は次のようなものです。①学校教育だけで英語が話せるようになる、というのは幻想だ。②日本語と英語では文法も発音もあまりにも違い過ぎる。しかも、6年間といっても、その合計学習時間は7、8百時間に過ぎない。③ TOEFL は高度な読む力や書く力を求めているテストで、東大の入試問題や英検1級より程度が高く、もちろん、学習指導要領には準拠していない。④学校の英語教育は、「読み書き中心」と思っている人が多いが、20年ほど前から、英語の教科書や授業は、“コミュニケーション重視”になっている。

 

(5)⑤しかも、その結果、英語嫌いが増えたり、実力が低下したりしている。今は、そういう問題点を検証すべき時だ。⑥学校の英語授業は基本的な文法や音声を教え、将来英語が必要になった時に自力で頑張れば伸びる基礎をつくっておくことだ。学校教育に責任を押し付けることは止めて欲しい。

 

(6)結論から言いますと、私は江利川教授の主張に全面的に賛成です。英語にも自信がなく、自助努力もしない政治家に英語教育を論じてもらいたくありません。江利川教授も指摘していますが、「英語さえ出来ればグローバル人間になれる」とか、「世界の人々と交流できる」といった英語一辺倒の姿勢にも反対したいと思います。私は、江利川教授の他の場面での発言については批判もしてきましたが、今回の朝日新聞紙上の発言については全面的に賛成です。

 

(7)ある民放の番組では、幼稚園では英米人の講師が完全に英語だけを使い、家庭では両親とも英語を話さないので、もっぱら日本語だけ、という1つの例を放映していました。そういう幼稚園や家庭もがあることは認めますが、商売の自由競争みたいに、「競争に負けたら、負けたほうがが悪いのだ」というような政策には大きな疑問を感じます。これからは中高の英語教員にもっと発言をしてもらいたいと希望します。学校という組織の中での抵抗は難しいものです。しかし、それこそ、生徒の将来のためにやるべきことではないでしょうか。(この回終り)

「自作教材の可能性と問題点」について

Posted on 2013年4月17日

 

(1)“教材”というのは、文字通り“教えるための材料”のことで、例としては、「教科書・副読本・標本・模型」などが挙げられます(『明鏡国語辞典』による)。しかし、中高の英語教員が、多忙の中でこうしたもの全てを自作するわけにはいきませんから、“何を自作するか”は慎重に考える必要があると思います。主要教材である検定教科書との関係も重視しなければなりません。

 

 

(2)「英語教育」誌(大修館書店)の 2013年5月号は、「教材をどう作るか・どう活かすか」という特集号になっています。上記の答を探るのに適した特集です。しかし、読んでみますと、執筆者によって、“自作教材”の考え方にかなりの差があるように思えます。これでは、新人教員には分かりにくいことになりますので、今回はそのことを考えてみることにします。

 

(3)最初の記事は、田尻悟郎(関西大)「自作教材を作って、使って、積み重ねていくには」です。田尻氏と言えば、かつて中学校での名人授業を実演されて多くの英語教員に感銘を与えた人で、私も直接に拝見したことがあります。大学の教員としても、英吾教員志望者を指導しているようで、大いに期待出来ます。

 

(3)しかしながら、田尻氏の記事は少し欲張り過ぎていて、かえって分かりにくいところがあります。例えば、“重要表現”の扱いでは、「既習表現と対比することはOK だが、混乱を招く可能性があるのならやめる」と説いています。[] Where does she live? Do you know where she lives? (提示方法は原文と異なります)。「こういう場合に、Do you know where does she live? が多数出現する」という指摘があって、「それならば、この表現の指導はやめる」と言っているように取れるのです。田尻氏の本心はそうではないはずですから、そういう誤解をされないように書いてもらいたいと思います。

 

(4)笹達一郎(群馬県立公立中学)「文法指導で使う教材をオリジナルで作る」は、ます“オリジナルで作る”という言い方に私は違和感を覚えます(他に“オリジナル”を使ったタイトルが3点ありますが、“独創的な/ に”がいいと思います)。笹氏の記事の内容は、日頃の指導方法がよく推測できる親切なものです。ドリルの問題を生徒にやらせて、出来た生徒は先生にそれを示すように指示しています。ただし、先生は出来ていたら、「クリア」と言い、出来ていなければ「ノットクリア」と言う、としています。テレビのクイズ番組では、「クリア」や「ノットクリア」はよく見かけますが、英語の教室では、”Cleared.” とか、”Not cleared.” と言ってもらいたいと思います。

 

(5)大鐘 雅勝(千葉市立稲毛中学)「教科書の教材を補完する工夫―本物の魅力を伝えよう」というタイトルも、「教科書の理解や応用を助ける教材」がいいと思います。“補完”は、「完全に補うこと」ですから、ここでは意味が強過ぎます。“本物”は、”authentic materials” のことだと思いますが、これは1980年代によく問題にされた用語です。例えばアメリカの風物を学ぶには、写真や録画教材も役に立ちますが、アメリカの家庭にホームステイして、アメリカ人の日常生活を経験する方が、印象や理解がずっと強くなります。

 

(6)大鐘氏は、録画教材や映画の利用までを論じていますが、私が気になるのは、版権の問題です。例え教育目的であっても、音楽などは版権がとても厳しいですから、用心するに越したことはありません。教え方や説明の仕方に独創性を発揮することは結構ですが、版権の問題にも言及して欲しかったと思います。(この回終り)