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「英語教育批評」(その63)(語彙指導の問題)

Posted on 2013年1月29日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2013年2月号の特集は、「プラスαの語彙指導」です。「語彙指導はあらゆる機会を捉えて実践すべきこと」というのが私の長い経験から得た原則です。ですから、「プラスα」というのはどういう意味なのかは、私にはちょっと分からなかったのです。この特集の表紙には、「新学習指導要領下で履修する単語数が増え、またコミュニカティブな授業を進める上で、知っているだけではなく使える語彙も増やすことが求められている」(後半省略)とあります。

 

(2)私は、学習指導要領(英語)の語彙指導に関する記述は、無責任なもので、ほとんど意識する必要がないと日頃から考えています。どういう点が無責任かと言えば、「数だけを指定して、その意味や用法に関しては触れていない」からです。それならば、「中学校3年間でおよそ1,500語」くらいの指定でよいのではないでしょうか。単語だけを丸暗記させるわけではないのですから、教材(主として検定教科書)の文脈に応じて、必要な意味や用法を指導すればよいと思います。

 

(3)特集の冒頭の記事は、相沢 一美(東京電機大)「新指導要領下の語彙指導をどう進めるか」ですが、中学校用の検定教科書、全6種類の使用語彙数を平成23年度用までと24年度用と比較した表を示してあります。それによりますと、増加率は最大74.65%から、最低25.68%まであって、平均すると45%くらいになるようです。これはかなりの増加と考えていいでしょう。だとしたら、教科書そのものをもっとページ数の多い内容の豊かなものにすべきだと思います。器の大きさだけ制限しておいて、語彙だけ詰め込んでも活用出来る語彙力が身に付くとはとても思えません。

 

(4)相沢氏の記事は、細かい配慮のある指導方法を説いてはいますが、語彙力は主として「読む教材」つまり教科書の内容に大きく左右されますから、一般論的な留意点は、現場の指導にはあまり役に立たないように感じます。このことは、他の記事、笠原 究(北海道教育大)「『英語で行う授業』における+αの語彙指導」、田畑 光義(千葉県香取市立小見川中)「ライティングで使える語彙を増やす」、及び星野 眞博(新潟県立長岡大手高校)「単語小テストでリスニングの『筋トレ』を」などにも言えることで、いずれも指導方法の工夫としては私には異論はありません。ただし、こういう記事内容であれば、特集記事のタイトルとしては、「中高生の英語語彙を増やすための指導法のいろいろ」などのほうが分かりやすかったのではないかと思いました。

 

(5)教科書と直接関係の無い場合としては、英語での挨拶の後で、教師が、”There was a big earthquake last night. Did you notice it?” などと切り出せば、多くの生徒が関心を示すでしょう。「earthquake」 という単語が未習であれば、板書をして、”earth” や “quake” の意味を確かめるとよいでしょう。さらに、生徒は、「“余震”は何て言うのですか」などと質問するかも知れません。教師はそういう質問を予想して、”aftershock(s) のような単語を調べておくべきでしょう。こういうことは指導要領とは関係の無いことです。

 

(6)もう1度繰り返しますが、語彙指導に関しては、中高の学習指導要領(英語)のことを前提にしないほうが良いと私は思います。指導要領を視野に入れて論じたいのであれば、その問題点を批判するような姿勢を私は期待したいと思います。(この回終り)

「カタカナ英語の氾濫」について

Posted on 2013年1月10日

(1)私はこれまでも、日本語の中の不必要な英語使用を度々批判してきました。しかし、その傾向は改善されるどころかますますひどくなる一方のように思えます。“でたらめな英単語使用”は、英語学習のためにもならないと考えていますから、今後も批判を繰り返していこうと思います。

 

(2)先日もラジオを聞いていたら、「その選択が有権者にとっては、“ベストミックス”だろうね」とあるコメンテーターが言っていました。どういう意味で使ったのか、確かめようがありませんが、このコメンテーター自身も説明出来ないのではないかと思いました。「いろいろ選択肢があるほうが、選ぶ国民の側には良い」くらいの意味かも知れません(英和辞典で、”mix” の名詞用法を調べてみてください)。テレビでは、「つまり“アウトクライ”するわけですね」と言う人もいました。「強く抗議する(”outcry”)」の意味でしょうが、カタカナ英語を使う必要は全くないわけです。

 

(3)音声面について言いますと、私は、”t” と”r” を繋げた音を、「ツ」で表すのには抵抗感があります。「そんなのは“クリスマス・ツリ―”でお馴染みだし、新名所の“スカイツリ―”だって、何の抵抗も無く受け入れられているではないか」と反論されるかも知れません。しかし、昔は野球の実況放送でも、「あの打者の“バッチング”は・・・」などと言っていたのが、“バッティング”と言うようになりました。“クリスマス・ツリ―”も、やがて、“クリスマス・トゥリ―”のように言えるようになると思うのです。

 

(4)東京新聞には、直木賞作家の大沢在昌が、「雨の狩人」という小説を連載していますが、1月6日(日)の書き出しでは、「…カウンターのストゥールから床に…」のような書き方をしています。“スツール”は広辞苑にも「背もたれのない一人用の腰掛」と出ていますが、私は、そういう表記に従わなかった作者の“音”に対する感覚に敬意を覚えました。作家でなくても、ラジオやテレビで発言する評論家は、もっと使う言葉に敏感であって欲しいと思うのです。

 

(5)トーク番組などで気になる口癖は、「何と言いますか…」とか、「どう言ったらいいかわかりませんが・・・」という言い方です。誰でも、発言に行き詰ることはありがちですが、あまり同じような言い方が繰り返されると、「この評論家は本当に視聴者に向かって意見が言える人物なのであろうか?」と疑問を抱かざる得なくなります。発言者は、言い足りなかったことを思い出したら、司会者に断って補足をすれば済むことだと思います。

 

(6)それにしても、ラジオはともかく、テレビ番組は、忙しい作り方をするものです。CM (これも日本語的省略です)が入るのは仕方がないとしても、30秒で結論が出るような問題をだらだらと小出しにしながら続けるのは感心出来ません。しかも、議論が盛り上がると、結論は出さずに次の話題に転換してしまうのです。「ビート・タケシのTVタックル」(朝日テレビ系)などが典型的なものです。

 

(7)バラエティーにしろ、政治問題にしろ、司会者と言えば、ビートたけし、さんま、みの・もんたくらいしか出てこない日本のテレビはどうかしています。しかも土曜日の番組などは、ほとんど自局の番組の宣伝で、中味のある番組が無いのです。これでは、広告も映像もインターネットに奪われてしまうのも分かります。もう後の祭りではないかと心配です。(この回終り)

「大学の教育改革の困難さ」を考える(その2)

Posted on 2012年12月14日

(1)大学という組織は、外部からは見えにくい複雑さと隠ぺい性があります。そうでなくても、「大学は学問研究の場」とか「最高学府」と呼ばれて、「自分たちとは別世界」といった意識が庶民の間にはあるのではないでしょうか。「権威に弱い」という封建的な国民性の一端と言えるかも知れません。時代劇「水戸黄門」の「この紋所が目に入らぬか」は、無意識のうちに日本人の国民性の一部を形成してきたと思います。

 

(2)しかし、今日では、大学教員の不祥事、とりわけ性犯罪が多くなって、大学と大学教員の評価を下げてきたことも事実でしょう。政治家の場合と同じように、一旦地に落ちた評価を回復するのは容易なことではありません。しかも、大学教員の場合は、総選挙の結果のような判断基準がありませんから、なおさら意識しにくいのです。果たして「自己改革」を大学関係者に期待することは出来るのでしょうか。

 

(3)大学は「権力闘争の場」と言っても過言ではないと思います。それは、学内の昇進人事や採用人事の際に目立つようになります。権限を有する一部の教授に嫌われたら、助教授(准教授)のままにされることがあったり、採用人事が進まないことがあったりするのです。しかも、大学の議事録などは公開されることがありませんから、内部の者でも経過を知ることは不可能なのです。

 

(4)1972年頃に、アメリカが沖縄を日本へ返還するに際して密約があって、米軍が払うべき費用を日本が肩代わりしたことは、今はネット上で明らかになっています。しかし、当時の日本の政治家たちは、少数野党を除いては、ほとんど無言でした。「出る杭は打たれる」で、黙っていたほうが保身に有利だと考えたからでしょう。大学関係者についても同じことが言えるのです。「権力闘争の場」では、「おべっかを使って、巧みに世渡りをする人間(英語で言う “apple-polisher”)が増えるのです。ちなみに、この英語の表現は、成績を上げてもらいたくて、先生におべっかを使う生徒の行為から生まれたようです。つまり“幼稚な行動”なのです。

 

(5)文部省(文科省)も、大学の実態にメスを入れたがらなかったのは、いずれ自分の天下り先になる大学へ余計な口出しをしたくなかったからと思われます。役人の天下り先としては、「なんとか財団理事長」といった役よりも貰う給料ははるかに低いでしょうが、執筆やテレビ出演などのアルバイトがしやすいことも魅力なのでしょう。もちろん大学教授の全てが“天下り”ではありませんが、テレビのコメンテーターに大学教授になっている元高級官僚が結構いるのは確かです。

 

(6)大学改革の大きな要因の1つになったのは、“少子化”だと言えるでしょう。受験生が来ないのでは、大学の存在意義が無いわけですから、現在では、ほとんどの大学が受験生集めに懸命です。したがって、入学してくれた学生には甘くなりがちです。ということで、結論は前回と似たものになってしまいました。果たして、総選挙の結果で大学は改革されるでしょうか。とても心配です。(この回終り)

「大学の教育改革の困難さ」を考える

Posted on 2012年11月30日

(1)衆議院の解散直前には、「田中真紀子文科大臣の大学のあり方に関する問題提起は間違っていなかった」という弁護論が聞かれました。「大学を何とかしなければいけない」という趣旨には私も賛成です。しかし、こういう発言が、大学の実情をどれだけ分かっていてなされたのか疑問に思うのです。田中真紀子大臣のあらっぽさを考えると、彼女には細かい配慮はとても無理であるように思えます。

 

(2)私は、50年近くの間に合計4つの国立大学、私立大学、私立短大で教えた経験がありますが、全ての実情に通じているとは、もちろん言えません。しかし、幾つかの大きな問題点は分かっているつもりです。その1つは“教授会”の存在です。大学の教員は、「学問研究の自由」ということをよく口にしますが、それは、今回の選挙対策に追われている政党が言っている「小異を捨てて、大同を取る」と共通点があるのです。つまり、実態は利己心だけなのです。“旧国立大学”では、“教授会”が有力で、学長でも“教授会”の意向に反しては何も決められないことがよくあったのです。

 

(3)理工系、医学系の学部や大学を別にすれば、特に人文系の学部や大学の教員は、週に1日半も大学にいれば、よかったのです。つまり「自宅で研究をしている」という言い分が認められていたのです。私立大学では、理事長を長とする理事会が権限を持っていて、しばしば教授会とトラブルを起こす例が、最近は特に多くなってきたように思います。日本では、何か権限を与えられると、「威張る人物」になることが多いのがその一因ではないでしょうか。

 

(4)私はフルブライトの特別プログラムで、短い期間(3か月)ですが、ミシガン大学に在学したことがあります。そこでは、教授たちは腰が低くて、サービス精神が旺盛なのに驚きました。自分で車を運転して、私たち留学生を下宿先まで案内してくれました。日本では偉くなるほど、「部下にやらせる」という風習が強いと思います。もちろん権限のある人は、大所高所から物事を見る必要はあるでしょう。しかし、そのことは「細かいことは知らなくてよい」という意味ではないはずです。

 

(5)ミシガン大の教授の授業では、受講生が百人、二百人と多いクラスが普通で、ちょっと驚きました。しかし、講義の仕方はとても親切で、アメリカの学生は講義中でも手を挙げて質問したりしますが、教授は丁寧に答えていました。しかもそういう教授の授業では、主に若い講師や助手クラスの教員が出席していて、10人程度の小クラスに分かれた時には、そういう教員が担当して、「教授はこう述べていたが、その理由を覚えているか」といった質問をされるので、どの授業もうっかりしていられなかった記憶があります。

 

(6)日本の大学でも“ゼミ”のような小クラスの授業はありますが、「大学は入りにくいが卒業は容易」という“伝統”は長年変わらなかったのです。やっと20年ほど前から、「シラバス(講義実施要項)」を公表するようになりましたが、受験生にも大学を選ぶ時に役に立つものです。こういう改革も大事ですが、少子化はかなり前から分かっていたのに、大学の数を増やすような認可をしてきた文科省の責任は大きいと思います。(この回終り)

「音読」に関連した思い出のこと

Posted on 2012年11月19日

(1)昭和17年頃私は小学生6年生でしたが、国語の時間の1時間は、「話し方」に当てられていて、担任の男性の先生ではなく、女性の先生が担当して、教科書の音読を訓練されました。その先生は、教科書の既習の課を朗読して生徒に聞かせた後で、生徒の読み方について、「そこは強めるところが違うでしょう?」とか、「そこはもっと感情を込めて読みましょう」のような指導をしてくれたのです。

 

(2)「話し方」の授業が当時どの程度全国的に行われていたのかは分かりませんが、昭和初期、及び戦後間もなくの「綴り方教室」のようには有名になりませんでした。しかし、私は忘れないでおきたいのです。現在の民放の天気予報では、“若い女性タレント”に天気予報を読ませる局がありますが、「ところによって、飴が降るでしょう」と聞こえることがあって気になります。方言は使うなという意味ではなく、アクセントをごちゃ混ぜにして話すことには反対したいのです。

 

「現在の音読指導」について

(1)「英語教育」(大修館書店)の 2012年12月号の特集は、「音読指導の実践 Q & A」です。異言語として学ぶ英語の音読指導にはどういう問題提起がなされるのかと、興味を感じて読みましたが、いささか失望しました。それは個々の記事の内容よりも、編集方針に原因があるように感じました。15編もある記事の最初の3つのタイトルは、「音読にはどのような効果があるか?」「CAN-DO の中で、音読活動はどう扱うべきか?」「入試対策として効果は認められるか?」となっています。

 

(2)いずれも大切な問題点かも知れませんが、私はどうも納得出来ません。英語の指導で、「音読指導」を話題にするのであれば、まず、「どういう目的で、どのように実践するのか」を前提にすべきではないでしょうか。それなのに、「音読指導を実践しているが、それはどのような効果があるのか」といった入り方では、まごつく教員が少なくないと思います。雑誌の啓蒙記事のはずですが、最初のものは、研究の目的、実験、結果、検証といった研究論文に近いものになっているのです。

 

(3)西村光博(山口県公立小学校)「国語科ではどのような音読を行っているのでしょうか?」という記事が最後にあって、「すらすら型」、「イメージ型」、「論理型」といった音読方法があることを説明しています。その内容の是非はともかく、私は、音読の基本は、「正しく理解した内容をどれだけ他の人に音声で伝えられるか」ということだと思うのです。文部科学省のホームページには、「音読と朗読」」という見出しで、指導技術が細かく書いてありますが、それは、「海外子女教育、帰国・外国人児童生徒教育等に関するホームページ」なのです。

 

(4)しかも、「参考」として、「平成10年版学習指導要領では、『音読』『朗読』の文言が削除された」と書いてあります。平成20年の小学校学習指導要領では、文語体の文章について、「音読」の注意はしていますが、「朗読」のことではないようです。最近は舞台芸術の1つとして、舞台での朗読の分野が注目をされていて、先日、私はその実例をラジオで聞きました。そして、普通のテレビ画面よりもずっと想像力を刺激されると思いました。そういう観点からも、学習指導要領は時代遅れの感じがします。

 

(5)今回の特集記事では、私の見落としでなければ、指導要領の観点に言及したものが皆無なのは理解に苦しみます。どの記事も「指導技術」の解説にばかり力点があって、視野が狭いのです。特集記事は、「何が基本的な問題点で、実践上どのような注意が必要か」といった観点から構成してもらいたいと思います。(この回終り)