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浅野:英語教育批評:「英語教員養成」を考える―「英語教育」2月号の特集をめぐって―(その1)

Posted on 2010年1月21日

(1)「英語教育」(大修館書店)2010年2月号の「優れた英語教員を育てる」という特集記事に言及しながら、英語教員養成の問題を考えてみたい。最初の久村研「いま求められている英語教員像とは?」は総論的なものだが、このタイトルは編集部のつけたものであろうが、少し意地悪だと思う。受身形で主語がはっきりしないからだ。久村氏は、先ず「『英語が使える日本人』のための行動計画」(2003) が示した英検、TOEIC などの得点基準を参照しながら論じているが、途中では次のようにも述べている。
(2)「『いま求められている英語教員像』を記述しようとしても、以上のように文脈が整理できない状態である。(以下略)」(p. 10)
「英語力」に限定すると数値的な基準は示せても、「教える力」を考慮すると明確な基準は示しにくいことは確かだ。ネイティブ・スピーカーであれば、誰でも自分の言語を教えることができる、とは考えてはならないであろう。多額の予算をかけて招いているALT に必ずしも教える能力や技術がないという批判は以前からなされてきた。
(3)久村氏は海外の言語教育事情に詳しいので、終わりのほうでは、EPOSTL(欧州評議会による言語教育実践ツールの1つ)を応用した日本版の作成と実践を提案しているが、紙数が十分ではなかったようだ。しかも、別に中山・大崎・神保「長期的視野に立つキャリア形成:英米の教員研修制度に学ぶ」があって、しかも視点が違うので両者の関連はほとんどないのは読者には親切な編集とは言えないように感じる。
(4)柳瀬陽介「大学英語教育の見識」は、最初に大正3年(1914)の夏目漱石の講演「私の個人主義」を引用しながら、そこに現代的な問題点への示唆を探求していて、同感できるところが多い。しかし、大学が「時代のニーズ」に合わせられて、「英語学・英文学系の大学人が確立したはずの教育の見識がそのままの形では受け入れられないことが多くの大学・学部で判明した」と述べているが、現在の大学では、英文科出身ではない多様な分野の経験者が英語を教えている場合が多い。彼らの英語教育の見方は、英文科出身者とはかなり違うので、軽視することはできないと思う。好むと好まざるとに関係なく、大学の英語教育は変わらざるを得ないのだ。
(4)松沢伸二「教員養成課程・どこが問題なのか?」は、理論的なものから、受講学生の生の声の引用という実践的な面までを分かりやすく論じている。教員志望者が『受講すべき科目も具体的に紹介しているが、それは、「教職入門、教育学概論、教育心理学、発達心理学、教育の制度と経営、教育方法・技術A ・・・」など38科目にもなり、その他に教育実習関係の科目もある。教壇に立ったことのない大学生が、こういう授業を受けて、どのくらい身につくものであろうか疑問に思う。だとすれば、教職に就きながら研鑽を続ける制度を確立することが望ましいと考える(この項続く)。(浅 野 博)
【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

Comments (2) Trackbacks (0)
  1. 【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】というコメントがひどいですね。何かを批評するのであれば他人から批評される余地を残すべきではないでしょうか。

    議論されるおつもりがないのであれば、タイトルから批評という文字を外されるべきであると考えます。

    • 私の記事に「コメントは原則非公開とさせて頂きます」と書きましたのは、それ
      まで何度か記事内容に関係の無い要望や見解が寄せられましたので、管理者と相談の
      上、つけてもらったものです。ただし、「原則」とありますように、すべてのコメン
      トを拒否するものではありません。(浅野)


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