言語情報ブログ 語学教育を考える

「英語教育批評」(その65)(センター入試制度のこと)

Posted on 2013年2月13日

(1)今回は「大学入試センター試験」の制度の問題を考えてみます。約60万人もの受験生がいる「センター試験」というのは、どうして出来た制度でしょうか。その由来については、インターネットで「大学入試センター」を検索すると、詳しく書いてある項目が見つかりますから、ここでは制度の説明はそちらに譲って、いくつかの問題点の指摘をしてみます。

 

(2)「入試センター試験の目的」については、次のような文言があります。

 

「大学入試センター試験は、大学(短期大学を含む。以下同じ。)に入学を志願する者の高等学校段階における基礎的な学習の達成の程度を判定することを主たる目的とするものであり、国公私立の大学が、それぞれの判断と創意工夫に基づき適切に利用することにより、大学教育を受けるにふさわしい能力・適性等を多面的に判定することに資するために実施するものです」

(3)上の引用部分は、いかにも官僚の作文らしい抜け目のないものです。確かに、科目数が多く、選択できる外国語も英語だけではありませんが、2日間の試験(しかも、選択肢から答を選ぶ「客観テスト」だけ)で、「大学教育を受けるにふさわしい能力・適正等を多面的に判定する」ことができるのかと疑問に思います。各大学が独自に行う「二次試験」と合わせて合否を判定することを前提にしているのでしょうが、それなら最初から各大学に任せた方が、受験生にはすっきりするはずです。

(4)昭和49年(1974)に、「センター試験」の前身の「共通1次試験」が始まったのは、それぞれの大学に出題を任せておくと「難問、奇問が多くなり、受験生に不要な負担をかける」という苦情が高校から文部省に多数寄せられたので、それに応えるためだったのです。「共通1次」にしても、現在の「入試センター試験」にしても、英語の語彙数などは、「4千語レベル」(何を基準にするかにもよりますが)を守っていることは確かです。前回で取り上げた例のように、”to call the shots”(指揮をとる)の意味を問う問題がありますが、文脈で推測できるようにしてあります。しかし、客観テストの形式ですと、誤答を消去法で排除することがある程度できますから、本当の“英語力”を多面的に判定することにはならないと思います。

(5)それぞれの大学には、特に私学には、入学した学生をどういう人間に育てるのかという目標があるわけですから、大学が独自の試験を実施することが望ましいわけです。センター入試の制度は、「大学は信用できない」という不信感から始まったものですから、多くの矛盾が生じてくるのだと思います。一方、大学の教育改革がなぜ困難なのかについては、私は、2011年の10月、11月のブログで、2回論じています。要するに「大学」は、外部からは伺い知ることの困難な“閉鎖社会”なのです。

(6)入学希望者を集めるのに苦労している大学が、「センター入試」を必修にするのは全く時間と労力の無駄でしょう。運転免許取得のための学科試験のように、高校卒業生や卒業見込みの生徒は、現住所の近くで「センター試験」をいつでも受けられるようにするのも1つの方法かも知れません。「どこで、誰が管理して」という大きな問題が残りますが。

(7)監督者(主に大学教員)については、「共通1次」の頃から、全く信用されていませんでした。必要な問題の冊子を配り忘れたり、答案を集めそこなったりと、いつも問題が生じています。「人間不信」から始まれば、「人間不信」に終わるものです。不注意だけではなく、倫理観や道徳意識の低下が障害になっているとしたら、私には良い解決策が浮かびません。どうしたらよいでしょうか。(この回終り)

Comments (0) Trackbacks (0)

Sorry, the comment form is closed at this time.

Trackbacks are disabled.