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「日英語ことばのエッセー」(その6)(“聞く力”とは何かを考える)

Posted on 2014年1月23日

(1)私は“ベストセラーの本”というものは、すぐには読まないことにしています。“1発芸人のギャグ”のように、その1冊だけで終わってしまうものが少なくないからです。しかし、阿川 佐和子『聞く力』(文芸春秋、2012)には興味をそそられました。私が若い頃に、彼女の父親の阿川 弘之氏の作品を読んでいましたから、父親の DNA が彼女にどのように伝わっているのかにも関心がありました。

 

(2)『聞く力』は、2012年、2013年とベストセラーを続けて、「150万部を突破」と宣伝されています。彼女は、雑誌『週刊文春』の対談を約20年も続けていて、対談の相手は千人に及ぶとのことです。しかも、本人は非常に謙虚で、「新書本のような学問的な本など書く柄ではない」と最後まで出版をためらっている様子が「まえがき」に書いてあります。

 

(3)阿川さん(父親の阿川氏と区別するための呼び方です)の本の前に読み直しみたいと思ったのが、安井 稔先生の『新しい聞き手の文法』(大修館書店、1978)でした。先生に教わったのはもう60年も前のことですが、その頃から先生は眼がご不自由で、厚いレンズの眼鏡をかけておられました。その後ほとんど全盲に近くなられたとのことでしたが、ある大学の学長になられたり、90歳を超えてからも新しい本を出版されたりして、その精力的な活動には頭が下がるばかりです。

 

(4)ここでは英文法のことを詳しく論じる余裕はありませんので、安井先生が、“新しい聞き手の文法”の定義を“はしがき”で述べておられますことを簡潔に紹介します。その要旨は、英語を外国語として理解する立場であり、そのための文法を“聞き手の文法”としたということです。つまり、私たちが新しい人と話す時は、“相手が知っていると思われること”と、“知らないであろうと思うこと”を区別して話しますが、“聞き手”の側からの文法を解説しているのが、『新しい聞き手の文法』なのです。

 

(5)私は、阿川さんの『聞く力』を読んで、彼女が、安井先生の言われるようなことを意識しているような書き方をしていることに特に興味を感じました。日本語の「聞く」(listen)という動詞には、「尋ねる」(ask)という意味もあって正にコミュニケーションの基本なわけです。しかも、阿川さんの相手はいつも会っている友人や知人ではなくて、それぞれの分野の、しかも初対面の専門家なわけですから、ずいぶん緊張することだろうと思います。学校の教師はそういう機会に恵まれることは少ないので、つい“上から目線”で生徒に接してしまうことが多いのではないでしょうか。そういう態度を反省する意味でも、『聞く力』は読むべき書物だと思います。

 

(6)この本には35の項目がありますが、その23番目には、「初対面の人への近づき方」というのがあって、彼女なりの方法を述べています(p. 161~)。1つは、「相手の様子をよく観察する慎重派」、2つ目は、「自分から積極的に声をかける積極派」。というわけです。阿川さん自身は、「だいたい2番目のタイプに近い」としていますが、「会話のリーダーシップをとるほどの学識や教養もないので、てれ隠しに笑顔をふりまいて、必要以上に元気なところを見せる」といった趣旨のことを述べています。

 

(7)彼女は、テレビの番組にも出ていますから、その率直な話しぶりはご存知の方も多いと思いますが、対談の実際は、『阿川佐和子の世界一受けたい授業』(文芸春秋、2012)にかなり収録されています。対談の相手は、小澤征璽、五木寛之、養老孟司、市川海老蔵といった名士たちです。なお、この本には、作家の村上 龍氏と阿川さん親子を加えての鼎談も載せてあります。

 

(8)上記の鼎談の主題は「日本語について」で、阿川 弘之氏が、最近の言葉遣いについて、怒りを示しています。例えば、“こだわり”という表現は、「僕の言ったことに何時までもこだわるなよ」と言うなら許されるが、「最近聞かれる“美味へのこだわり”とか、“平和解決へのこだわり”といった言い方はおかしい」というわけです。

 

(9)“日常のことば”というものは、生き物ですから、時代と共に変化するということは認めざるを得ない点があります。拙著の『ブログ放談集』でも問題にしましたが、「日本付近は高気圧に覆われて・・・・」も私は違和感があるのですが、多くの日本人が違和感を持たずに口にするものですから、今では“正しい言い方”になっているようです。ちなみに、『明鏡国語辞典』(大修館書店、2009)は、「入口の付近が混み合う」の例を示しています。

 

(10)学校の授業では暗記、暗唱も必要でしょうが、言葉遣いの成否を考えさせるような授業を加えるべきではないでしょうか。特に英語の授業では、生徒の頭の使い方はそれぞれ違うことを教師は意識して教えるべきでしょう。そのためには、教師に“ゆとり”を与えるような行政的対応が必要です。現状では、「法律で縛りつければ、悪い教師を排除できる」と考えているようで、憂慮に堪えません。言葉遣いの難しさは、政治家がまず正しく認識すべきです。靖国参拝の後も、「私の言うことが理解出来ないのは、相手の能力不足だ」と言わんばかりの安倍首相の強気に危険性を感じるのは私だけでないと思います。(この回終り)

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