言語情報ブログ 語学教育を考える

「日英語ことばのエッセー」(その7)(“言語習得の常識”とは?)

Posted on 2014年3月4日

(1)今回は、白畑知彦(静岡大)編著『英語習得の「常識」「非常識」―第二言語習得研究からの検証』という書物(大修館書店、2004)を参考にしながら、英語教育の問題を考えてみることにします。なお上記の書物には、若林 茂則(中央大)、須田 孝司(仙台電波高専)の両氏も著者として参加しています。職名は本の発行時のものです。

 

(2)この書物は、A5版、179ページのもので、参考点を挙げるだけでも数が多過ぎますから、今回は私の主観で、最初のほうから少し選ばせてもらうことにします。白幡氏は、「はじめに」のタイトルに「あやふやな説にだまされないために」と付言して、そういう例として、「たいていの日本人は英語を学ぶとき左脳で学ぼうとします。でも言葉は本来右脳で学ぶもの」(原文のまま)を示しています。これは、英語教育関係の雑誌の広告にあったキャッチコピーとのことです。

 

(3)英語を学ぶ、または学ばせられる中学生は、右脳か左脳かを意識することはないでしょうし、「英語を学ぶためには右脳を使え」と言うような教師の例も私は知りません。一般的に言って、意識しにくい脳の働きなどは、専門家に言われると、「そんなものか」と思う程度のことはあると思います。女性のよく試みるダイエットにしても、いろいろな説があるものですから、実践する女性は悩むことが多いようです。言葉の問題に似た点があります。

 

(4)余談はさておき、本題は「英語習得」のことです。本書では、第1章として、「母語習得について考える」として「母語は模倣によって習得するのか?」という問題を取り上げています。「幼児は親や周囲の大人たちの言葉を真似して覚える」というのは、かなり広く信じられていることであろうと推測できます。

 

(5)私は、まず“聞き取る能力”と、“発話する能力”は分けて考えるべきだと思います。そしてこの原則は、外国語(異言語)の学習の場合にも共通点があると思います。特に最近強調される「早くから英語を話せるようにしよう」というのは、“間違った説”だと考えるべきです。白畑氏は、英語を母語とする幼児の言語的発達段階を紹介(p. 5)していて、模倣によって発話出来る部分は非常に限られていると述べています。そして結論的には、「母語(の文法)習得の完成時は世界共通」として、この習得は5、6才で完成し、知能指数や一般学力の指数とは関係ないとも述べています(P. 6)。

 

(6)常識的に考えても、幼児の周囲の大人たちが常に“文法的に正しい文”を話しているとは限らないことは容易に想像出来ます。それなのに、幼児が母語をかなりの程度正確に習得出来るのはなぜであろうか?というのは、自分の子を育てたり、周囲の幼児をよく観察したりしている大人には自然に生じてくる疑問であろうと思います。そこで、白畑氏の書物では、「生まれつき備わっている言語習得能力があるのか?」という問題を検証しています(p. 11)。

日本語の例では、a.「太郎はテレビを見たい。」、b.「太郎はテレビが見たい。」を示していて、日本語話者はどちらも正しい文と認識するが、a.「健は旅行の日程を決めている。」、b.「健は旅行の日程が決めている。」となると、b.は不適格な文だと分かる、というわけです。

 

(7)しかしながら、私は、こういう不適格な日本語は、学問的研究の成果に関係なく、広く使われていると思わざるを得ません。特にひどいのは、国会の中継で耳にする議員たちのでたらめな日本語です。敬語の間違いは別としても、「今の答弁は私の質問を答えていません」とか、「予定を変えると言いながら、実際は予定を変わっていないではないですか」のような間違いは枚挙にいとまがないほどです。英語教育に限らず、日本語の教育も見直さなければならないのが現状であろうと思います。

 

(8)見方によっては、文法的に不適格な文でも、通じ合えるというのが日本文化であって、そういう“おおらかさ”を大事にすべきではないか、という見解もありますが、私は同意出来ません。学校教育の基本問題に関わることだからです。したがって、この問題は、今後も考え続けるつもりです。(この回終り)

Comments (0) Trackbacks (0)

Sorry, the comment form is closed at this time.

Trackbacks are disabled.