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日英ことばのエッセー(その12)(日本人と英語教育)

Posted on 2014年8月5日

(1)マーク・ピーターセン『英語の壁』(文芸春秋、2003)に、「なぜ日本人は英語が下手なのか」と題する章があります(p. 117~)よく読んでみると著者は本当にそう思っているのではなくて、こういう題名のシンポジウムにパネリスト(パネラーは和製英語)として招かれたことがあって、「なぜ日本人はいつもこういうネーミングを好むのであろうかという不思議な気持ちのまま、会場へ向かった」とあります。

 

(2)日本人が自虐的な表現を好むのは確かですが、外国人が思うほど、深刻には考えていないのが実情でしょう。いろいろな場合が考えられますが、“うそをついているほどの気持ち” ではなく、“話し相手への配慮”くらいの意識だと思います。このことは、日本と全く違う環境で育った外国人には理解しにくいことだと思います。日本の国会議員の議場での発言を聞いていますと、敬語の使い方が間違いだらけです。特に相手が野党議員だったりすると、相手を尊敬する気など全く無いことは明らかです。日本人は、本音と建前の差が大きい民族なのだと思います。

 

(3)ピーターセン氏は、さらに、「日本人の英語学習者の中には、中学、高校から大学まで、英語の授業を受けながら、“英語はさっぱり分からない”と考えている人が多いし、その気持ちも分からないでもない」と同情を示してくれています。しかし、一方では、「自分で反復練習するという努力をする生徒も少ないようだ」と痛いところも突いています。

 

(4)ピーターセン氏は、「日本の英語教育がいちばん間違っているのは、全国民に英語だけを教え込もうとしていることだ」という趣旨のことを述べています。私は自分のブログでも述べたことがありますが、アメリカの若い大学生から、「1つの外国語を2、3年もやって、ものにならないと思ったら、別の外国語をやるか、外国語は諦める」と言われた経験があります。日本の高校生は英語一点張りで、選択の余地はほとんど無いのです。

 

(5)鈴木 孝夫『日本人はなぜ英語が出来ないか』(岩波新書、1999)には、「日本人は日常生活では、英語などを全く必要としない。そこがアメリカやイギリスの植民地であった現在の独立国とは、事情が全く違うのだ」という趣旨の指摘があります。私は、現在ではこの考え方は修正する必要があると思います。独立国としては、それぞれの事情に応じて、外国語教育を実施しているでしょうが、やはり英語が選ばれているとしたならば、それなりの理由があると考えるべきで、日本人のように、“英語さえ出来れば”といった安易な姿勢は、少ないのではないでしょうか?

 

(6)昭和30年(1957)頃、私は高校生を教えていましたが、英語の得意な生徒が3年生になって、進路相談をすると、外国語大学を志望していることが分かりました。私は、「君ならきっと受かると思うが、これからは英語の出来る学生が益々増えるから、例えばスペイン語などを専攻してみたらどうだろう」と提案してみました。その生徒は素直に応じて、スペイン語を専攻したのですが、「日本の銀行に就職したのですが、スペイン語の力を活かす機会が無くて苦労しましたよ」とだいぶ後になって、クラス会で会った時に言われてしまいました。

 

(7)私としては、「どこか商社に勤めれば、活躍出来るであろう」という見込みで提案したのでしたが、それが外れて迷惑をかけたと、反省しました。それはともかく、当時の高校生は、素直なばかりでなく、自主性があって、“勉強は自分で努力するものだ”という意識が強かったように思います。現在の若者たちはどうでしょうか?もちろん、個人によって大きな差があるとは思いますが。私には、今の高校生を指導する資格は無いような気がしています。(この回終り)

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