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日本語は悪魔の言葉か?(4)の2

Posted on 2014年9月3日

7.漢字を捨てられない日本語

 

1)ひらがな・カタカナの発明

中国において唐が滅亡して(907年)、朝鮮にも、越南にも、日本にも独立の機運が高まったと思われる。朝鮮はハングルを発明し、越南はチューノムを作り、日本は「ひらがな」「カタカナ」を作った。それまではすべて中国が手本で、体制も文化もその模倣であったが、やっと東アジア各国は独自性を発揮し始めた。

 

「かな」は漢文を読むための補助記号として考案され、少しずつ改善されてきた。今の生徒が英語の文章の間に、単語の意味を、発音を日本語で小さくシャーペンで書き込むようなものだ。アンチョコ用、虎の巻用の隠れた文字としてかな・カナは出来ていった。

 

カタカナ、ひらがながなかったら、日本人は書くのも読むのも難しく、識字率も上がらず、四苦八苦して、東アジアの小さな遅れた島としての存在にすぎなかったかと思われる。

 

2)音読み、訓読み

音読みも長い時代にわたって中国から多くの読み方を習得し、さらに自身で遠慮なく訳語を作った。訓読みも徹底的に、広く適用したばかりか、漢語に適当な漢字がない場合は、例えば、「動」から「働」という漢字を作って、「はたらく」に当てたばかりか、「労働する」といった動詞まで作ってしまう徹底ぶりであった。

 

「行」という漢字を借りて、これを音読みとしては「コウ」(行動)、「ギョウ」(行書)、「アン」(行燈)などと読ませた。訓読みとしては「ユク」(行く)、「オコナウ」(行う)だけでなく、「アルク」「サル」「メグル」などたくさんの読みを与えたが、それは淘汰された。「ユクエ」(行方)といった当て字も作ってしまった。このようにして、日本語は中国語以上に漢字にすっかり、どっぷりとはまり込んでしまったのだ。

 

3)造語力

前にも書いたように、常用漢字2字の組合せだけでも100万語の単語を作るのは造作もないことだ。同音異義語が増えるものの読み違いはないし、聞き違いもそれほど多くは起こらない。

 

また、それぞれの単語が短くて済むのがよい。日本語では「日照権」からすぐに「嫌煙権」を作ったが、英語ではそうはいかなかった。The right to enjoy sunshine(日照権)と同じように、the right to be free from other’s smokeと表現し、やがて、nonsmokers’ right も使われるようになったが、一般の人にはそれほどなじめなかったようだ。頭字(アクロニム)でRBFOSと言う人もいる。(英米人はわれわれが理解に苦しむほどアクロニム好きだ。ことばが長くなりがちなので、アクロニム化は必要悪なのかも知れない。)

 

4)単語習得 ― 漢字の方が覚えやすい!英語は少ない数のローマ字を覚えれば、すぐに書ける、読めると言われるが、それは文字が書けたり、読めたりするだけで、単語が書ける、読めるわけではない。

2000語がわかるためには2000語を覚えなければならない。いっぽう漢字の方は1字1字に意味があるので、常用漢字2136字を覚えたということは単語を2136語覚えたのと同じ効果を発揮する。さらにこの漢字がいろいろな組み合わせで出てくるので、5000語も10000語も、それ以上の単語も、なんとなく意味の類推がつく。

 

例えば、「人類学」というのは、普通の人でも人間を研究するのかなと類推がつく。内容はわからなくても少し見当がつく。ところが、英語では anthropology と言う。これは語源が古代ギリシャ語であって、普通のイギリス人にはほとんど類推もできないだろう。phalaenopsis だって普通のイギリス人は何のことだかまったくわからないが、「胡蝶蘭」ならたいていの日本人はランの1種だろう、きれいなチョウに似た花かなと思うことができる。

 

日本では中学3年までの義務教育で習う漢字をすべて習得していれば、讀賣新聞や朝日新聞は読めるだろう。イギリスではそうはいかない。労働者の人たちは4000~8000語ぐらいの語彙力しかないので、タイムズやインデペンデントのような全国紙は読めないと言われる。実際彼らは、写真の多いタブロイド版の大衆紙しか読んでいない。

 

「数学」「文学」「音楽」といった単語も漢字を知っていればわかるが、英語では、mathematics, literature, music と1つずつ覚えなければならない。このように漢字の方がはるかに応用が利くことが多い。

 

)漢字とひらがな、カタカナ

現在日本語は、漢字が50%を超えるぐらいで、あとの半分をひらがなとカタカナが適度に占め、単語と単語の間を空けることなく、読みやすく書きやすい。中国語やかつてのベトナム語では、例えば、ドストエフスキーと書くとき、この音を1つずつ漢字で表さなければならない。これはたいへんなことだ。漢字、ひらがな、カタカナの併用はまさに理想的であったと思われる。

 

ひらがな、カタカナは仮の文字、陰の文字、女子供の文字であったので、形は任意でそれほど確定していなかった。小学校の教科書を作るためにこれを確定させたと言ってもいいだろう。夏目漱石の原稿などを見ると、例えば、「ネ」は「ネ」と書いてあったり、「子」と書いてあったりして確定してない。

 

かなは専門家が作ったものでなくて、民間で使いながら徐々に創り上げていったため、似ていてまぎらわしい綴りも見られる。(「コ」と「ユ」、「ユ」と「エ」、「ヲ」と「ラ」、「ろ」と「る」など。)

 

(つづく)

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