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サッチャー教育改革の功罪(2)

Posted on 2014年10月30日

自民党・民主党の英国への教育調査団(1)

 

私自身は政治や外交にはまったく疎く、国会議員の名前もあまり知らない状態だが、新聞などをたまに見ると、自民党も民社党も教育改革にはたいへんに熱心なのがわかる。だれでも教育には一言あるが、特に政治家は教育批判が大好きらしい。

 

彼らは「旧教育基本法」は「無国籍」で、日本の歴史や国柄には一言も触れられていない、国家は国民と対立する存在であり、国民を抑圧するものであるという思想がその基本にあると解釈している。これを国が教育の根幹を規定し、全面的に国が責任を持つ形に変えたいというのが彼らの意向だったようだ。

 

憲法改正こそ彼らの最大の目標であるが、まずは教育基本法を改正し、日本人の育成法を正したいと考えたようだ。そのために研究会を次々と作っていき、2006年(平成18年)12月15日の「新教育基本法」制定へともっていったわけだ。

 

1978年に超党派で「日本を守る国民会議」を結成し、それが 「日本会議」(1997年)、「日本会議国会議員懇談会」を経て、2004年に388名もの国会議員を集めて「教育基本法改正促進委員会」を旗揚げした。

 

その間「勉強会」において、京都大学の中西輝政教授等の情報提供、指導により、何度となく、英国のサッチャー首相の「教育改革」が話題になったようだ。教育は国家が責任をもつべきだ、国家統一のカリキュラムを作り、それへの達成度を厳しく査定し、成績を公表し、父兄に学校選択を許すべきだ、とするサッチャー教育改革は大いに受けたらしい。「日本の学習指導要領に学べ!」とサッチャーが言っていたと聞いて、議員たちは大いに喜んだ。

 

現首相の安倍晋三氏は、当時は自民党幹事長、あるいは幹事長代理であったが、常に活動・会議の中心にいて、教育改革に熱心であった。

 

安倍氏らは、サッチャー教育改革こそ学ぶべきモデルだとの確信にいたり、英国へ教育調査団を送ろうとの案が出た。これはどんどん話が進み、超党派で議員団を送ることになり、2004年9月26日に出発し、10月9日に帰国した。公務多忙のため、安倍晋三氏、中川昭一氏、平沼赳夫氏等は加われなかったが。

 

その成果は次の通り。

 

(1)1970年代当時のイギリスの社会

1979年にサッチャーさんが政権についたときのイギリスは、さながら経済敗戦国で、市街には板を打ち付けて閉店になっているところが多く、人々は手厚い福祉政策ですっかり働かなくなり、産業競争力を失っていた。物価は高騰し、ストライキが続発し、夜の停電は日常化し、ロンドン市内は都市機能が麻痺寸前であった。

 

ひどいのは経済だけでなかった。学園紛争、伝統的な価値観に対する反発、性道徳の乱れ、家庭の崩壊が急速に進んでいた。高福祉で他人依存型の社会で、だれも責任を取らず、いわゆる「イギリス病」の蔓延に喘いでいた。

 

(2)教育の状況

児童中心主義1944年の「旧教育基本法」では、教育の権限のほとんどすべてが地方教育局に下ろされ、教育局は校長に、校長は担任教員に任せていた。

 

統一的なガイドライン(指導要領)も検定教科書もなかった。それゆえ各教師は、それぞれ自主的で自由な、言い換えれば、勝手気ままな教育を行い、子供たちには「市民の権利」をまず教え、過去のイギリス帝国主義批判の歴史教育を推進してきた。子供たちが興味を持ちそうな「総合学習」「体験学習」の時間が増え、算数ドリルなどの基礎的な学力はどんどん落ちていった。

 

議員のみなさんはこのへんは事前学習しており、

ロンドンのあちらこちらでその追認を行い、

サッチャー改革へと目を向けた。

 

(3)サッチャーさんの教育改革

サッチャー首相は、イギリス病の克服はまず教育改革からとし、抜本的な「1988年教育基本法」を打ち出し、地方の自主性に任せていた教育を、国家の管理に移し、教育のすべての点に関して、国家が企画・主導し、責任を持つとした。

 

国家統一のカリキュラム、統一試験、試験結果の公表、親の学校選択の自由、統一試験結果のチェック、教育効果の上がってない学校の指導と整理、宗教教育(道徳教育)の重視等の施策を具体的に実行していった。

 

 (つづく)
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