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サッチャー教育改革の功罪(付録)2/2

Posted on 2015年1月29日

●日本における教育、そして教育改革(2)

 

●(5)「ゆとり教育」の真の目的

多くの知識を教え込むことになりがちであった教育の基調を転換し、学習者である生徒の立場に立って、生徒に自ら学び自ら考える力を育成する。自由で、柔軟で、居心地の良い学校生活の中で行われる特徴的な教育を発展させ、「生きることへの熱望」を育てることを基本的な目的とする。

 

おそらく、有馬朗人氏(元文部大臣・中央教育審議会会長)のお考えはこのへんにあったのだと推察できる。それはまた、学習指導要領をきちんと読めばよく理解できる。

 

このような崇高な理念にはだれも反対はできない。が、これが実現するためには、第1に予算措置を十分にし、クラスサイズを小さくし、教員を増やし、雑用を減らして、担任に時間的な余裕を与え、試行錯誤してこの目標を達成するための、少なくても20年ぐらいの余裕は与えるべきであろう。

 

それをクラスはそのままで、ただ指導内容だけ3割削っただけで、2年も待たずに「ほら、成績が落ちてきたじゃないか」と言うのはあまりに早計だ。日本の近代教育が100年以上もの間やってこなかったことを実践するのだから、20年は評価を待ってやらないと。有馬先生がかわいそうだ。

 

●(6)「総合的な学習の時間」― これも憧れの科目「総合的な学習の時間」は日本人にとっては最も苦手な科目である。生徒が自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力を育成する。(審議会答申)意見を言うのは10年早いと指導されてきた日本の生徒にこれを要求するには、相当の覚悟が

必要だ。少なくても20年は待ってやるべきだ。先生だってまったく慣れていないのだから。

 

●(7)「学習指導要領」に望みたいこと

日本の「学習指導要領」は相当早くから「生きる力の養成」を軸に思考力、言語表現力を伸ばすべく、探求型の授業、論述や討論の充実などをうたってきた。世界でも最も進んでいたと考えてよい。これがなかなか浸透せず、その方向で成果をあげず、ただただ指導要領だけが先走っていたのだが。

 

この優れた指導要領に最も望みたい一点は「多様性」だ。すべての規定を標準、モデルとして示すべきではないか。日本中のすべての小学校が同じ科目を同じ時間数だけ勉強する。ある事項は3年生では提示のみで指導はしない、指導は4年生で、と事細かに規定している。英語においても扱う語彙、文型は細かに規定されていて、すべての教科書は同じようになっている。したがって教科書による特徴といったものがほとんどない。

 

高校の英語では、「授業は英語で行う」と、先生の教室でのことばまで規定されてしまっている。

 

望ましい標準を示す、お勧めの形を示すのは大いに結構だが、日本全国のすべての学校が細かな点まで同じようにするような規定をやめて、多様性を認めてほしい。教師の創意工夫を大いに推奨してほしい。

 

(この項終わり)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その17)(「質的研究」のすすめ)

Posted on 2015年1月21日

(1)『英語教育』誌の2015 年2月号の特集の第1は、「生徒・授業を変える『質的研究』のすすめ」です。私は正直なところ、“質的研究”という用語が、英語教育関係で使われていることを知りませんでした。特集の扉ページには、次のような説明があります。「『質的研究』では、参加者の視点で研究者自身が内省的な考察を行うことにより、データに基づいて現象の新たな側面を見いだしたり、新たな理論を生み出します」(部分引用)。

 

(2)上のように言われても、よく分からなかったのですが、私自身は新しい事を学ぶ意欲はまだ衰えていませんので、勉強するつもりで記事を読ませてもらいました。特に本誌19ページには、吉田 達弘(兵庫教育大)「質的研究理解のためのブックガイド」が掲載されていて、英語教育との関係を知るのに便利でした。こういう情報は最初に掲載してもらえるとなお良かったのですが。

 

(3)私は新しい多くの文献を読む余裕が今はありませんが、以前に心理学関係の本を読んだ時に、“質的研究”といった用語を見た記憶がぼんやりと浮かんできました。広辞苑にも、“質的研究”という用語の説明がありますが、社会学の問題としてのもので、すぐに英語教育に結びつくものではありません。とにかく中・高の教員は忙しいですから、「質的研究で生徒・授業を変えられます」と言われても、すぐに始められるほどの余裕が無いのが一般的ではないでしょうか?

 

(4)日本で唯一とされる『英語教育』誌の宣伝としても、「こんな難しいことを知らないと教員として失格なのか」という印象を与えるのは避けた方がいいと私は思いました。第2特集は、「生徒と教師のための新学期準備チェックリスト1」で、これは今後の号にも続くようですが、この特集のほうが日常の授業と結びつきやすいので、先に出すべきだったと思いました。

 

(5)“日頃の授業と結びつきやすい”と言えば、『英語教育』には、すぐに役立つ記事が沢山あるのです。例えば、「入試の悪問から学ぶ文法指導のヒント」(p. 48~)とか、「Q&A:より良いテストの作り方・使いかた」(p. 62~)などもあります。理論的な勉強もしたいと希望する人もいることでしょう。この号では、「<複雑系>で英語学習観が変わる―SLA の最新理論から―第5回」」という記事もあります。

 

(6)このように、『英語教育』誌は、特集とは関係がなくても、英語教員には欠かせない貴重な情報源なのです。最初から難解な課題を見せて、買って読んでみようかと思う読者を尻ごみさせてしまうのは、宣伝としても賛成出来ません。そうでなくても、“活字離れ”“図書館離れ”“本屋の消滅”などが社会問題化しているのです。『英語教育』誌の益々の発展を祈ること切なるものがあることを訴えて、今回の結びのことばとします。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その16)(無理せずできるアウトプットの評価とテスト)

Posted on 2015年1月15日

(1)『英語教育』誌 2015年1月号の特集の1つは、「無理せずできるアウトプットの評価とテスト」ですが、私はまず、“アウトプット” (output) の定義を確認しておきたいと思います。英語教員でも、「話すことでしょう?」のように自信の無い返事が返ってくる場合があるからです。

 

(2)今回の第1特集の表紙には、次のような説明があります。「従来の読む・書くに加えて、聞く・話すといったアウトプット型スキルの評価やテストについて、今後いっそう系統立った指導と評価の一体化が求められそうです」(部分引用)とあります。つまり、この場合の“アウトプット”は、“話す”“書く”という技能を意味していると考えられます。

 

(3)私も現役の英語教師として高校生を教えていた頃は、学年末は特に忙しい思いをしました。期末試験の採点、担任しているクラスの生徒の総合評価、親との面談など、ずいぶん“無理をした”記憶があるのです。そこで、今回の特集のように、“無理せずできる方法”があるならば、今からでも教わりたいという思いで、記事を読み始めました。

 

(4)最初の「教室でのスピーキング・ライティングの評価とテスト」については、特集全体に言えることですが、“評価とテスト”は、順番を逆にすべきであろうと思います。“テスト”は“評価”のための1つの方法だからからです。後の記事のタイトルを見ても、「ライティング指導・評価のありかたとは」、「スピーチコミュニケーションの評価」などです。「ライティングの評価とテスト」というのもあって、書き手が勝手に、視点を変えているように思えます。それなら、無理に“特集記事”として縛る必要はないでしょう。「指導法と評価のあり方」とでもすればいいことだと思いました。

 

(5)第2特集は、「『ジーニアス英和辞典 第5版』にみる「英和辞書の変化・英語の変化」です。直接に生徒の指導に結びつくものではありませんが、関心を持つ英語教師は少なくないと思います。例えば、wearable (身に付けることができる)という形容詞は、用途が急速に拡大しています。『ジーニアス第5版』は、”wearable computer” の例を示していますが、現在は、『眼鏡に仕組まれたパソコン』があって、“視線の動きで必要な情報を得られるもの”など実用化が急速に進んでいます。

 

(6)英語学習の目的としては、ただ流行を追うべきではないのは当然です。現在は、腰を落ち着けて英語教育の方法と目的を考え直す大事な時期なのだと私は思います。(この回終り)

サッチャー教育改革の功罪(付録)1/2

Posted on 2015年1月6日

●日本における教育、そして教育改革(1)

 

●(1)学力調査結果の公表―おろかなり!サッチャーさんは日本に学べと教育改革を行ったが、今度は、日本がサッチャー改革に学んで、全国学力テストを復活させたばかりか、イギリスが失敗したとして、縮小しつつある、悪名高いテスト結果の公表をイギリスに学んで公表するという。

 

このテスト結果の公表がどれほどイギリスの教育を混乱させたか、ちょっとそれを調べただけでわかるものを、地方教育委員会、文科省はおろかとしか言いようがない。(安倍晋三氏も中心となった視察団は、イギリスのテスト順位公表を高く評価している。おかしいです!!)

 

すでにイギリスでは、スコットランドも北アイルランドもウェールズもやめてしまって、イングランドでさえ、公表の仕方を変えつつある。いったいどんな形で実施するつもりか。

 

●(2)日本の教育の特徴 ― 訓練主義

日本の教育の特徴は、大ざっぱに言えば、全国一律に、知識の体系を計画的に、効率よく、一斉指導で教え込むこと。訓練的学力観に立っている。

 

比べて、フィンランドなどでは、「生徒中心主義」を取り、生徒がそれぞれ自分で目標を決めて学習していく。社会に出て自分の判断で生きていける人を作る。すべての学習は将来の生活につながる。教師は支援者だという。

 

このような生徒に勝手にやらせておく教育がどうしてフィンランドで成功したのか。それはおそらく、クラスサイズが小さく、補助教員がつく、教師が優秀で、医師と並んで尊敬されている、教科書も教え方も教師の自由、担任は全員、難関の修士課程を修了していて、みっちり教育実習と自己研修を受けている。優秀な担任が自分の信念に基づいて、思い切ったクラス運営をする。このような要素が相乗効果を表して、「生徒中心主義」が成功したと推察される。

 

いっぽう日本の場合はまったく反対で、クラスサイズは大きく、補助の教員もつかず、教育学部は人気がなく、教師は集まらず、尊敬されてはいない。教育実習はほんの短い期間で形ばかり。教育課程も教科書もカリキュラムも、教え方さえもきっちりと法律で決められ、教師の自由はほとんどない。教師も校長も上からの指示待ち状態。

 

上海、韓国、シンガポール、日本などが  PISA国際テストでよい点を取っているが、それは、熱心にテストの勉強、対策をしているからで、「訓練主義」が勝ったわけではない。見かけだけの、偽りの勝利だ。

 

フィンランドは、日本から大量に出かけていった視察団が拍子抜けしたが、何のテスト対策もせず、国際テストを気にしている様子もなかった。フィンランド、デンマーク等の北欧、オランダ等の「生徒中心主義」の国々はなんのテスト対策もしてなかったのだ。

 

●(3)「生徒中心主義」への憧れ

明治以来の日本の教育は概して、訓練的で、一斉指導、上から知識を与えて覚えさせ、その定着を検査するといった教育であった。しかしながら一方では、常に「生徒中心主義」への憧れを持ち、研究授業となると、いかに生徒を活動させるか、生徒から疑問・質問を出させるかといった模範授業がなされ、個々の教員は、大きなクラスサイズや教える科目・事項が多い劣悪な教育環境の中で頑張ってきた。それでも欧米に追い付け、追い越せとの上からの指示でどうしても「訓練主義」にならざるをえなかった。

 

●(4)「ゆとり教育」― 憧れの実現としての教育改革

最近の教育改革で最も大きかった、いわゆる「ゆとり教育」は、このような「生徒中心主義」への憧れ、あるいは”幻想”から生まれたと見てよいであろう。

 

詰め込み過ぎの勉強、受験勉強でゆとりがない生徒に土曜日を休みにし、学習内容も3割削って、だれでもわかるように懇切丁寧な指導をしようとの運動に基づくものだった。

 

しかし調べてみると、生徒は本当にゆとりがなかったのかどうか疑問だ。そんなにがちがちの受験勉強や詰め込み過ぎの状況だったのか。そうだとはとても信じられない。

 

実際、各種調査によると、生徒の学校以外での学習時間は1975年ぐらいから年を追って少なくなっている。さらに、学校以外に自分での勉強はいっさいしてない生徒も年々数が増え続けている。

 

それでは何が問題か?

少子化で受験生が減って、うるさいことを言わなければ、入れる高校や大学はいくつもある。筆記試験がない大学もあり、勉強する気がなくても「おいで、おいで!」とばかり入れてくれる高校・大学がある。

 

一方では、生徒の学習状況は「七五三」と言われた。小学校では3割が授業がわからず、中学では5割、高校ではなんと7割が授業がわからないという。

 

それに加えて、不登校、中退が多く、いじめ、病気、自殺、傷害・殺人などが異常に多い問題。担当する教師の側では、健康不良、休職、退職率の高さ。教師の志願者がどんどん減っている問題など。

 

PISA国際テストで成績上位国の中で日本の生徒の科目嫌いが目立つ。例えば「算数の授業が楽しいですか」などに「いいえ」が他の国々と比べて飛びぬけて高い。

 

そのような状況への解決のひとつの方策として「ゆとり教育」は提案されたのだ。

 

(つづく)

サッチャー教育改革の功罪(5)

Posted on 2014年12月17日

「サッチャー教育改革」の大失敗(2)

 

●6.ほんとうに成績は向上したのか

 

イギリスではいわゆる教科書といったものは決まってなかったので、何を使ってもよかった。教員の専門性に応じて、シェイクスピアの作品を1冊克明に読んでもよかった。広い知識よりも論理的思考、しっかりした考えを持つといったことが強調された。真の深い学力を望む傾向が強かった。

 

ところが、テスト主義になり、常に採点され、序列化されるようになって、変わってきた。

せいぜいがパラグラフを読む、単文を書く程度で、すぐに明示的な答えを出させ、それを採点・評価する。すなわち、狭い意味の力しかつかない状況になった。それゆえに政府は成績が向上したと言っているが、はたしてそれが向上なのか、下降なのかは問題だ。

 

学校、校長、地方教育局は、子供の学力向上よりも予算を増やすことに眼目があり、明示的な数字を求めすぎ、どうしても無理をし過ぎる傾向があった。

 

教育の結果がはっきりしない文学作品に対する関心は、だんだん低くなり、他方で、論理的思考を養うクリティカル・シンキング的な授業も少なくなってきた。

 

イギリスのある大学生への調査では、学生たちには知識はあっても、エッセイで自分の考えを論理的にまとめて議論する力や、科目の中核となる諸概念に対する深い理解力が欠けていることが判明したという。

 

天下に有名なAレベル試験も、サッチャー改革の影響を受けて変わってきた。かつては例えば「経済」で、「資料のグラフ、表から近年の金融状況を論ぜよ」これ1題でほかに問題なし、結果は「A」が5%以下で、Aを取った受験生は希望の大学へ入れるといったことがあった。

 

専門性が強く、問題そのものが日本でなら大学生でなく大学院生が解く問題だと思われるところがあった。

 

ところが、近年では、問題も小分けされ、平易になり、Aレベルの取得率も上がり、「A」は平均25%以上で、Aを取ったからと言って、そう珍しくはなくなった。大学は倍増し、学生定員は三倍増して、大学もエリートのものではなくなり、平民化したようだ。

 

●7.イングランド以外の動向

 

ご承知のように、英国は連合王国と称し、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなっている。労働党のブレア―首相になってから、「地方分権化」が進み、1999年にスコットランドとウェールズに議会と地方政府が設置された。さらに北アイルランドにも分権を進めた。そして、さまざまな分野で中央政府からの権限移譲がなされた。

 

北アイルランドは統一学力テストを廃止し、カリキュラムも大幅に改変の方向に向かった。ウェールズでも全テストが廃止され、カリキュラム改訂の作業が進んでいる。スコットランドではさらに進んで、新しい学力評価体制が確立しつつある。いずれの地方政府も「テストでは計れない「総合的な学力」をつけさせる」体制を模索しているのであった。

 

ウェールズは、もっともイングランドと歩調をともにしてきたが、2004年に全小・中等学校においてナショナル・テストを廃止した。「ナショナル・テストは教師と生徒の双方にとって弊害が多すぎる」「”テスト中心主義“から子供を中心におき、教師の役割を重視する教育体制に移行する」と教育長官は宣言した。学力テストそのものはその後も行われているが、テスト結果は教師の評価資料とし、地方政府がテスト結果のデータを集約することはない。

 

統一カリキュラムについても、幅広い知識を教えることに重点が置かれ過ぎて、子供の考える力や応用力、コミュニケーション力などが軽視されていると結論づけた。

 

このようにして、スコットランドもウェールズも北アイルランドも市場原理を導入したサッチャー教育改革から離脱して、新たな体制に向かって歩みを進めつつある。

 

今では「イギリスでは」というのは、たいていの場合「イングランドでは」を意味していると考えてよいであろう。中央政府の集約力はどんどん弱まっている。これは案外一国の

政治の望ましいあり方なのかも知れない。

 

●9.イングランドにおける修正の方向

 

テスト結果は教師が判定する際のひとつの材料とする、成績発表も、従来のように全国を1つにして、成績順に学校を並べるのではなくて、学校の置かれている地域差などを考慮して、また前回テストからの向上率なども考慮して発表する方向へ転換をはかりつつある。

 

反対する教員組合、校長会とも話し合い、教員・校長にとって大きな負担であり、自由を制限されていると感じていることを認め、それぞれの学校の創造的授業を奨励する方向を取りつつある。がしかし、教育改革体制の根幹を変えるものにはいたっていない。

 

教育技能省の大臣は、ナショナル・テストとそのテスト結果の公表は、教育改革の根幹なので、やめることは考えていないと言い続けている。

 

(つづく)