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「英語で表現する力」の問題点を考える

Posted on 2012年5月18日

(1)「英語教育」誌(大修館書店、2012年6月号)の特集は、「新課程で育てる英語で表現する力」です。高等学校の場合は、科目名がよく変わりますから、特に中学校の教員にその変化を知ってもらうことは大切だと思います。ただし、「新課程で育てる」とわざわざ言わなくてもよいのではないかと私は思いました。英語教育では、教える側も学ぶ側も、「表現力をつけたい」と思うのが普通だからです。

 

(2)最初は、平木裕(国立教育政策研究所 教育課程調査官)「生徒の『英語で表現する力』は今―現状と改善点」です。冒頭にふさわしいタイトルで、特に平成17年度に国立教育政策研究所教育課程研究センターが実施した調査結果の解説と課題を述べているものです。この調査については、ダウンロードできるURL も紹介してあります。ただし、多量のデータですから、各執筆者が、「調査結果(または問題) 3 については…」のように、この調査に頻繁に言及していますから、手元にプリントアウトしたものを持っていても、いちいち参照するのはとても時間がかかりますし、参照しないと記事がかなり読みにくいのです。

 

(3)特集の最後の記事は、前田啓朗(広島大学外国語教育研究センター)「国立教育政策研究所『特定の課題に関する調査(英語:『書くこと』)(中学校)の概要と結果報告」ですが、こういう記事は最初の方に載せるべきではないでしょうか。この報告は、4ページに渡って、各問の通過率や無回答率などを紹介していて参考になりますが、「調査資料」との照合はとても面倒です。

 

(4)公開されているこの調査資料には、「無断転載を禁じる」とか、「版権上削除された問題があります」という注意がありますから、この資料は完全なものではないわけです。それならば、編集部はそういうことを最初に断るべきだと思います。執筆者の言及も断片的なものが多いですから、「“英語で表現する力”を育てる授業実践」といった特集の方がすっきりします。

 

(5)その好例は、山岡憲史(立命館大)「高校英語の新しい科目『英語表現』―その特徴と指導法―」でしょう。「英語表現」がこれまでの「OC(Oral Communication) Ⅰ」とどう違うかを述べて、具体的な授業の進め方を説いています。これなら、「資料」と関係なく読めます。また、大井恭子(千葉大)「まとまりのある文章を書かせる指導」も、「調査資料」に言及はしていますが、やや長い英文の誤答を例に、”cohesion”「結束性」と”coherence”「(意味的論理的)一貫性」の観点からの指導法を述べています。内容も重要ですが、実例の示し方が分かりやすくて、読みやすい記事だと思います。

 

(6)根岸雅史(東京外語大)「まとまりのある文章を書くための下位技能―その現状と課題―」は、テスティングの専門家らしく、細かい問題点をよく指摘していると思いますが、やはり「調査資料」への言及が多く、読みにくい点があります。それはともかく、私には、「そもそも、疑問文、否定文、句読点などの使い方は、選択肢のある客観テストなどで測れる「表現力」なのでしょうか、という問題意識があります。この「調査」では、従来型のテスト(You have played it for a long time? を疑問文に変えるもの)の他に、やや自由に書かせるテスト形式も採用していますが、発想そのものの自由を制限しておいて、短い文脈で”“否定文などを書かせられた英文”が、“その生徒の実力でしょうか”という点にも疑問を感じるのです。(この回終り)

(浅野 博)

「日本語が亡びるとき」を考える

Posted on 2012年5月2日

(1)水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)という本があります。出版当時かなり話題になった本で、「英語教育」(大修館書店)にも書評が載りましたから、お読みになった教員もいることでしょう。題名はかなりショッキングなものですが、著者は、「なぜ日本語が亡びるのか」を冷静に論じています。

 

(2)A5版、300ページ以上の書物で、その内容をすべて論じることは出来ませんから、最後の第7章の「英語教育と日本語教育」を中心に考えてみることにします。この章の冒頭で、著者は「凡庸だが日本語が亡びるのを避けるためには学校教育に頼るしかない」として、これまでの日本語教育、すなわち国語教育を痛烈に批判しています。例えば、文学の考え方は、「詩的なもの、ロマンチックなもの、エロチックなもの」であり、「小説家が国の学校教育などに口を出すのは無粋とされている」といった趣旨のことを書いています(p. 266)。

 

(3)私は以前にこの「英語教育批評」で、詩人の丸谷才一氏の『日本語のために』(新潮文庫、1978)を推薦したことがあります。特に丸谷氏のこの本には教育問題に関しての発言が多く、「文部省にへつらうな」といった忠告をしています。国語教育が反省すべき点が多いことは、水村氏の指摘の通りですが、前例はあるのです。

 

(4)私が高校に勤務していた頃に、同僚の国語の教員が、「国語の世界では、万葉集か源氏物語のことを論じないと相手にされない」とこぼしていたことがあります。その教員は、現代日本語の語法についての論文をいくつか書いていました。そういう国語界の閉塞性を打破したのは、海外で応用言語学などを勉強して、日本語を学ぶ留学生を教えている日本人教員が多かったと思います。

 

(5)水村美苗氏は著書による紹介では、東京生まれで、12歳の時に父親の関係でニューヨークに一家で住みましたが、そこの生活になじめなくて、「現代日本文学全集」を読んで過したとのことです。後にイェール大学、大学院で仏文学を専攻して、アメリカの大学で日本近代文学を講義したこともあるようです。著作も多く、文部大臣新人賞や読売文学賞なども受賞しています。

 

(6)日本の敗戦後の、1950年代から60年代にかけては、アメリカのフルブライト法によって主として中等教員対象のプログラムが出来て、まず英語教員が恩恵を受け、その後は理科教員にまで枠が広げられまました。帰国した理科教員の話を聞いたことがありますが、英語の発音や会話に自信がなくても、積極的にその機会を利用して、日米の文化交流に貢献したことが分る報告でした。しかし、国語の教員にはそういうプログラムに応募しようという空気はなかったようです。これでは、“井の中の蛙”になってしまうでしょう。

 

(7)水村氏は、「平たく言えば、日本人は実際に日本語を大切にしようという気がないのである」と述べて、その原因はもっと深いところにあるとしています(p. 291)。更に、「音」や「訓」の読み方、「ひらがな」と「カタカナ」のことや、「表音文字」と「表意文字」のことなどを論じています。これまで、外国の植民地になったことのない国の日本人が、日本語に誇りも愛着も感じないとしたら、“日本語が亡びる”ことがあっても当然と言わなければなりません。英語教師にとっても深刻な問題提起として受け止めるべきだと思います。(この回終り)

(浅野 博)

英語教育の“帯活動”を考える

Posted on 2012年4月19日

(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2012年5月号の特集は、「毎日コツコツ帯活動―積み重ねで学習者を育てる」です。私は、英語教育での“帯活動”という言葉は始めて知りました。そこで、最初の記事、太田洋(駒沢女子大)「帯活動の意味―Teaching ≠learning だからこそ」を読んでみますと、最初の方に、「帯活動、私は『ある一定の期間、授業の一定の時間帯(例、最初の5分間)に行う活動』と定義したいと思います」とあります。どうも私にはこの定義はよく分かりません。

 

(2)他の記事のタイトルを見ても、「チャンツでウォーミングアップ」、「歌を使った工夫」、「1-minute Speech」などとあって、どうしてこれを“帯活動”と呼ばなければならないのか分からないのです。「生徒に何か学習活動をさせても1回きりでは効果がないので、繰り返す必要がある」と言いたいのかも知れませんが、そんなことは昔から言われていたことで、外国語を教える場合の常識ではないでしょうか。新しい呼び方をすると、名称だけが独り歩きをして、特別に効果的なことを実践しているといった錯覚に教師が陥る危険性があると思うのです。

 

(3)私が“帯”という言葉で思いつくのは、テレビの番組です。TBS に「ひるおび」という番組があって、月曜から金曜の午前11時から、2、3時間ほど、政治、事件、娯楽、教養などを提供しています。司会者は一定で、コメンテーターは曜日によって変わります。こういう番組のファンは、その時間になったら、チャンネルを合わせて視聴するでしょう。

 

(4)「帯番組(おびばんぐみ)」という言葉は、広辞苑にも載っていますが、『明鏡国語辞典』(大修館書店)では、「ラジオやテレビで、毎日または毎週、連続して同時刻に放送される番組」と定義しています。教員はほぼ毎日、同じ時間に授業を持つことはあるでしょう。では生徒から見た場合はどうでしょうか。中学、高校の生徒にとって、毎日英語の授業があるというのは、特に公立校では普通考えられません。あったとしても、教師が変わり教科書も変わる場合が普通だと思います。

 

(5)したがって、「帯授業」というのは、教員または第3者の立場からの発想で、生徒の目線からのものではないと思わざるを得ないのです。上記(2)で書きましたように、英語教室での実践は、「帯活動」などという用語で表す必要はなくて、「どうすれば生徒の学習意欲を持続させられるか」という昔からの課題として考えればよいことだと思うのです。「生徒の学習意欲を持続させるために」といった特集でよいのではないでしょうか。

 

(6)「英語教育」誌の編集者は、編集後記で、この英語教育専門誌が「還暦」を迎えたことを報告して、読者への感謝を述べています。私自身も、その間ずっと本誌で勉強をさせてもらい、しばしば執筆者としても協力させて頂きました。本誌について意地悪な批評も書いてきましたが、その裏には、今後ともますます発展してもらいたいという私の念願が含まれていることをご推察頂ければ幸甚です。(この回終り)

(浅野 博)

『ああアメリカ』について考える

Posted on 2012年3月26日

(1)板坂元(いたさか・げん)氏の書物に『ああアメリカ』という題のものがあります。1973年に講談社現代新書として出版されたものです。この題では、アメリカについて“親しみのある国”とか“尊敬すべき国”といったイメージはまず浮かびません。憐れみとか同情を感じるのが普通だと思います。このような題にした真意を考えてみたいと思います。中高校生には、秋葉忠利『アメリカ人とのつきあい方』(岩波ジュニア新書、1989)をまず薦めたほうがよいでしょう。後に広島市長となった秋葉氏には、平和への強い信念が感じられます。

 

(2)この書物のカバーによりますと、板坂氏は1922 年に中国の南京に生まれ、東大文学部国文科を卒業しています。専攻は江戸文学で、1957年にケンブリッジ大学で、1960年にはハーバード大学で日本文学や日本語を講じて、この書物の出た 1973年頃まで10年以上の滞米生活を送っています。それでいて、“アメリカべったり”の姿勢にならない点に私は魅力を感じました(なお彼は2004年に82歳で歿しています)。

 

(3)実は、この書物のタイトルの下には小さい活字で、「傷だらけの巨象」という副題が付けてあるのです。つまりこの書物は、“巨象”すなわち“大国アメリカ”の陰の一面を批判しているのです。便利そうな日常生活に憧れるだけで、アメリカの退廃を指摘する多くの人がいることなど知らない当時の日本人への警告の文章なのです。

 

(4)40年ほど前に、アメリカで暮らすようになった日本人たちは、大きな冷蔵庫やクーラーなどのあるアメリカの“贅沢な暮し”を満喫するのですが、板坂氏は、それは始めのうちだけで、「一旦機器が故障すると何軒に電話しても応答がなく、やっと連絡がついて待っていると、“すっぽかされる”ことが多い」という趣旨の嘆きを書いています(p. 18)。

 

(5)日本でも、実際の“サービス”は広告宣伝のようにはいかないことがありますが、騙されるということはめったにないと思います。騙されると言えば、腹が立つのは「おれおれ詐欺」でしょう。日本人の“お人好し”につけ込んで、何千万円という大金を騙し取るのですから。これからは、若い人に、「誰も信じるな」と教えていかなければならないとしたら、誠に残念なことですし、教育上の大問題です。

 

(6)英語教員としては、「アメリカはダメな国だ」と単純に教えるのではなく、「アメリカという国を理解したかったら、もっともっと英語を勉強して、アメリカ人と話し合い、意見の交換をして、お互いに長所短所を認め合うところまでいけるようにしよう」と励ますべきでしょう。

 

(7)板坂氏は次のように書いています。「(日系移民に関しては)警察に捕まるような犯罪者は急速に減っていて、若い世代の医学、工学、建築、教育の面への進出が目立って多くなっている。やはり、三代の間に、しかも戦争のためにいったん破産状態にされた日本人が、少数民族ではあるがすぐれて頭角を現しているのは(ニューズ・ウイーク71年6月21日号)どこかに日本の伝統を背負っているからではなかろうか」(p. 170)。40年ほど前のことですが、心に留めておくべき指摘だと思います。

 

(8)伝統というものは、時には足かせにもなるものですが、完全に捨て去ることはできないものです。英語教員は、日本文化の伝統を見直しながら、学習者に英語の力をつけるような努力をしたいものだと思います。(この回終り)

(浅野 博)

「英語の授業を英語で行うこと」を考える

Posted on 2012年3月19日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2012年4月号の特集は「英語で授業を進めるために」です。「英語を教えるのに英語を使え」という方針に私は条件付きの賛成です。したがって、条件付き反対でもあります。その条件については、特集の冒頭の記事で金谷憲氏(東京学芸大特任教授)がまとめてくれています。① 教材問題 ② 教員養成・研修問題 ③ 同僚問題 ④ 入試問題の4点ですが、「教育実習」、「教員の同僚性」、「入試問題」などについては、私はこのブログで論じてきました。

 

(2)高校では中学校と違って、学校単位で検定教科書を採択できますが、科目数が多く、学校によってレベルも違いますから、その学校の教員同士がよく話し合わなければ効果も期待出来ません。1学年で扱う科目として、「英語コミュニケーション基礎」「コミュニケーション英語Ⅰ」「英語表現Ⅰ」「英語会話」がありますから、多くの場合、複数の教員が分担しなければなりません。したがって、担当者同士のコンセンサスを得ることが重要なわけです。

 

(3)また金谷氏は、教員養成に関しては国が法律で決めるものなので、「大学院レベルへのシフトを前進してもらいたい」旨の主張をしています。英語教員の学歴を高くして大学院で2年間は勉強をさせるとしたら、大学院自体に英語教員養成に必要な指導力を持つ教員が十分にいるのか、という疑問を私は拭いきれません。東京学芸大学はそういう点では恵まれた数少ない大学だと思いますが、ほとんどの教育大学・大学院は必ずしもうまく運営されていないという噂を耳にします。

 

(4)“日本人が英語を自由に話せるようにする”ためには、いつも良いモデルが耳に入り、英語が話せるような環境が必要です。文科省は、「そのために ALT を配置しているし、海外経験の豊かな英語の出来る人材を臨時講師として雇えるようにもしている」と答えるかも知れません。しかし、週4,5回の授業ではとても十分な言語環境とは言えないでしょう。一部の進学高校では、“ALT に3学年は教えさせない”などの現象もあります。“外国語を話す力”は、使う機会がなければ急速に失われるものです。文科省の方針は、実現性のない目標だけを押しつけて、“英語が話せないという劣等感に悩む日本人”を増やすだけの愚策と言わざるを得ません。

 

(5)今回の特集では、中学、高校の実践報告的な記事が9編ありますが、そこで使われている英語に疑問を感じるものがあるのです。例えば、「英語で授業FAQ」という題の記事の執筆者は、“FAQ”を「よく尋ねられる質問」の意味で使っているようです(p. 13)。失礼ながら、それを英語で言えるのでしょうか。英語の表現では、“誰が、誰に対して質問するのか”を明示するのが普通です。しかも、この記事には、”Courage” と題する課を読んで、“生徒に作らせた詩”が紹介されていますが、それは、”Courage is starting something new.” とか、”Courage is keeping my dream.” のような英文です。これで英語を教えたことになるのか甚だ疑問です。もっと一般性のある基礎的な表現を覚えさせることのほうが先決でしょう。他の記事では、教師の使う英語として、”We have review for words or phrases.” とか、”I ask you two questions in Japanese, English, or, How do you spell ~?Answer two questions.” といったものもあります。(p. 29)

 

(6)日本人の英語教師が“完全な英語”を話すことは不可能なことが多いのは認めざるを得ません。したがって、生徒の英語を許容するだけでは、「英語(特に“話すこと”)を教えたこと」にはならないと思います。例えば、生徒は、「” I’m very tired.” は“とても疲れ”と訳すのですか、それとも“とても疲れている”と訳すのですか?」といった質問をするものです。こういう場合は、日本語できちんと説明してやるべきでしょう。9編の実践報告にはこうした点への配慮がほとんど見られないのを残念に思います。(この回終り)

(浅野 博)