言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「差」をなくす努力

Posted on 2007年3月12日

 英語教育では、これまでも「学力差」をなくす努力は長く続けられてきた。「動機付け」から「個人差に応じた指導をどうするか」など実践報告や書物も少なくない。一方、「習熟度別指導」は中学校段階では反対も多く、あまり実践されなかった。主な理由は、40人以上の大クラスでは効果が期待できないこと、また人格形成という観点からは望ましくない、などである。しかし、40人以下の学級が増え、ALT とのティームティーチングも普及したことなどの現象が、「習熟度別指導」の可能性を大きくした。学校によっては、1クラスを日本人教師2名が指導する場合もある。いずれにしても、生徒数減少という社会的現象が可能にしわけで、外国語教育のあり方という面からの積極的な意図が感じられないのは残念である。とにかく底辺を上げる努力は個別に対応してなされるべきで、「平均点が上がった」とか「東大合格者が5人増えた」といった視点では解決できない。
 生活上の「格差」問題も同じようなものだ。国会審議の問答を聞いていると、「統計上ではそういうケースは減少している」とか「その面では何十億円も予算をつけている」といった答弁が多い。確かに、総理大臣が「市役所の窓口でこんなことを言われたが、どうしてくれる」といった問題にいちいち答えられなくても止むを得ないかもしれない。しかし、政治の姿勢に底辺に対する暖かい“気配り”があれば、それが官僚や地方公務員を通して浸透していくことは不可能ではない。
 ところで、最近は“キャリア官僚”への応募が減っているらしい。表向きの理由は「独創的な仕事ができない」ということだが、「天下りができにくくなる」「マスコミや政治家からは叩かれる」という本音もあろう。“優秀な”官僚がいなくなると困るのは庶民だ。「今の若者は、“自分が好きなことをやれ”と言うと“自分勝手なことをやること”と勘違いをする」というのは、映画の井筒監督のことばだ。おかしな世の中になってきたものだと思う。
(浅 野 博)