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日本語における「主語省略」の問題(5)

Posted on 2015年5月11日

●(2)日本文学英訳における勘違いを検討する日本文学の小説とその英訳をいろいろと見ていて、ときどき省略されている主語が英訳では誤訳されていることに気がついた。

 

そこで、太宰治の『斜陽』とドナルド・キーン氏による英訳を取り上げて、その前半の5章について、原作と英訳とを突き合わせてみた。その結果、10数か所、英語の代名詞にして30数個の誤訳を見つけた。

 

「お母さま、おいでになる?」と私がたずねると、 「だって、お願いしていたんだもの」ととてもたまらなく 淋しそうに笑っておっしゃった。

“Are you going, Mother” I asked.“I must,” she said,  smiling in an almost unbearably pathetic way. “He asked me to.”

 

適当な家をさがしてと頼んでおいたら、家が見つかったと言ってきた。だから「[私が]お願いしていたんだもの」で、英訳の最後は、  He asked me to.  → I asked him to.とならなければならない。

 

当初私は、省略の補いは文脈(コンテキスト、意味の前後関係)によってなされると考えた。じっくり読めば、読解力によって省略はわかるはずだと考えた。しかし、ドナルド・キーンさんほどの当代一流の翻訳者がどうしてわからないのだろうと、この点がどうしても解決がつかなかった。

 

何年かが過ぎて、述語(動詞+助動詞・助詞)が力を貸していることに気がついた。

 

a) [私が]お願いしていたんだもの。

b) [あちらさんが]お願いしてきたんだもの。

 

c) [私は]出かけた。

d) [あなたは]お出かけになる?

e) [彼は]お出かけになった。

 

このように述語を見れば、主語は1人称か2人称かの区別がつくことが多い。これが前後の意味関係を大いに助けているのだろう。

 

さらにもう1例見てみると。

 

「かず子がっかり。だってお母さまはいつだったか、かず子は頸すじが白く綺麗だから、なるべく頸すじを隠さないようにっておっしゃったじゃないの」「そんなことだけは覚えているのね」「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」

“I’m disappointed. Didn’t you once tell me that my neckline was so pretty that I should try not to hide it? Didn’t you?”“Yes, I seem to remember something of the sort.”“I never forget a syllable of praise addressed to me. I’m so glad you remembered.”

「そんなことだけは覚えているのね」は[あなたは]となるので、“I”は“you”にしなければならない。

 

f) [あなたは]そんなことだけは覚えているのね。

g) [私は]そんなことだけは覚えているのね。

 

述語の使い方としてf)がふつうだが、g)もダメだとは言い切れない。しかし、どちらにするかは文脈、前後関係ですぐにわかるはず。こんなやさしいのをどうして間違えたんだろうと思う。

 

「覚えていたほうが、楽しいもの」も[私]のことであって、“you remembered”とはどうしてもならない。“you”とするためには、

 

h) [あなたが]覚えていてくれたほうが、[私は]楽しいもの。

となって、述語が変わってこよう。ここも、こんなやさしいのを間違えるとは驚きだ。

 

(つづく)

日本語における「主語省略」の問題(4)

Posted on 2015年4月20日

●日本語の「省略された主語」がどうしてわからないのだろう?

 

以前、こんな話を書いた。日本語のように動詞が文の最後に来る「SOV言語」と英語のように目的語などが動詞のあとに来る「SVO言語」では、前者が47%で、後者は32%だ。世界のたくさんの言語の中で決して日本語は特殊な言語ではないと。

 

主語の省略についてはどうだろうか。日本語は主語を省いたりして曖昧で特殊な言語なんだ、などと生徒に説明する先生がいるが、それでいいのだろうか。調べてみた。

 

Perlmutter(1971)などの文献によれば、英語のように、仮主語の「it」を立ててまで、主語を省かずに示す言語はインドヨーロッパ語族の中の英語、フランス語、ドイツ語、ロマンシュ語、オランダ語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語だけで、世界の言語の1%にも満たない。話者の数でいくと、世界70億人の10%7億人程度だ。

 

世界の多くの言語は、程度の差はあるが、主語を省略する。最も多く主語を省略する言語は、日本語、ポリネシア諸語など。次に朝鮮語などのウラル・アルタイ語族、続いて中国語など。それからヨーロッパのイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フィンランド語など。

 

しかし、この主語省略の比率は一直線に並んでいるわけではない。少々複雑だ。日本語や朝鮮語など、なんとなく主語を省略している言語とイタリア語などの動詞の活用語尾によって省略されている主語がはっきりとわかる言語とでは、方式が違っている。

 

はっきりわかることは、日本語は最も主語を省略する言語の1つで、英語は最も主語を省略しない言語だということだ。このように日本語と英語とは、いろいろな点で両極端をなしている。ゆえに、英語は日本人にとっては最も習得が難しい言語だと言ってよいであろう。

 

余計な話を付け加えると、よく主語を省略するのは、日本語のような母音中心言語が多く、主語を省略しない言語は英語のように子音中心言語だ。また、日本語のように母音中心言語の人は母音を左脳で聴き、楽器の音は右脳で聴くが、子音中心言語の英米人などは、母音も楽器も右脳で聴く。子音は左脳で聴く。

 

もうひとつ言えば、日本文学を翻訳する際に、韓国語や中国語はかなりの代名詞主語を付け加える。日本語の原作にはなかった主語を加える際にやはり間違いが起こるようだ。

 

日本語の省略された主語をなぜ外国人は間違うのか。これは長い間私の疑問として残った。10年、20年とときどき考えた。

 

●(1)主語省略の実態

ある調査によると、日本語における省略のうち、主語省略がもっとも多く、会話体で67%、論説体で27%の主語が省略されていたという。(省略されていると言うよりも暗示される主語が67%もあると言うべきか。)実例を示そう。

 

(1)さう、それから、さきほど稲村さんにお電話で申し上げますと、母もいっしょですかと、お嬢さんがおっしゃいますから、お揃いでいらしていただけばなお結構ですと、お願いしたんですけれど、お母さんは差支えで、お嬢さんだけということにしました。―川端康成『千羽鶴』

 

When I spoke to Miss Inamura over the telephone, she asked if I meant that her mother was to come too. I said it would be still better if we could have two of them. But there were reasons why the mother couldn’t come, and We made it just the girl. ―Trans. by E.G. Seidensticker

 

原文でははっきりと主語とわかるものは2つだけしかない。ところが英訳の方には主語が10もある。日本語では主語を省略している意識はそれほどないが、英語の観点では10個も主語を明示しないと普通のことばにならない。

 

日本語は、代名詞主語を増やしていくと、代名詞ばかりが目立って、かえって談話全体がわかりにくくなる。また、省略することによって、節と節、文と文の緊密性を高める、いい直せば、結束性を高めている。すなわち、日本語においては、省略は単にことばの経済のゆえだけでなく、言いたいポイントを伝える積極的なストラテジーの1つとなっているのだ。

 

(つづく)

日本語における「主語省略」の問題(3)

Posted on 2015年4月6日

●(2)日本語における省略のルール

英語の場合はほぼ予想通りに仕事は進んだが、日本語の場合はそうはいかなかった。小説・随筆を選んで、省略があると思われる文を書き抜き始めたが、待てよ、と思った。

 

復元先がすぐ前になかったり、ずっと前から読んでこないと省略部分が復元できなかったり、ぼんやりと意味がわかるだけで、具体的に復元しようとすると、何通りものやり方があって、迷ったりした。

 

仕事のやり方を変えざるを得なかった。たくさんカードを取るよりも、復元した文も書き、注記や感じたコメントも入れることにした。

 

そのようにして、数十枚のカードを取った。それから、もう少し別のやり方はないかと考えた。そして日本文学の原文と英訳との比較をやってみたら、何かわかるのではないかと思った。いくつかの作品を取り上げて、原文と訳文を突き合わせていくと、日本語の省略語句がときどき誤訳されていることを発見した。

 

当代一流の翻訳家が、日本語は自由に話せ、漢字は日本人以上に知っている人たちが、省略された主語や目的語を間違ったりするのはなぜだろうと考えた。どうもよくわからず宿題とした。

 

多くのカードを眺めて、暫定的に日本語の省略のルールを決めた。

 

B:日本語は「意味の前後関係」によって省略を行う。日本語は、もしもその省略を補うとすれば、「意味の前後関係」(situation)を目安にする。

 

(3) 警棒で抱きかかえようとすると、いきなり腕に噛みついてきた。

この例文の省略されていると思われるところを補ってみると、[私が]警棒で[その女を]抱きかかえようとすると、[女は]いきなり[私の]腕に噛みついてきた。

 

「私」という語はどこにもないが、意味上わかる。「その女」は同じ文の中にはなく、その前の文を見てもない。どうしてこれがわかるかと言うと、ずーとさかのぼっていくと、酔っぱらいの女が相手だとわかる。[その女を]にしても[彼女を]でもいいし、[そいつを]でもいいし、[その人を]でもいい。

 

(4) 「北海道の学生さんですか。」「いいえ、ちがいます。」

この「ちがいます」は省略はないとも言えるし、あるとしてもよいだろう。「[それは]ちがいます」とか「[あなたのおっしゃっていることは]ちがいます」などと解釈できる。「そうです」「そんなら」「そうすると」などと同じく、前の内容をくくって、それに対して総括的に言い添えるわけだ。このような「総括的表現」は日本語の一つの特徴で、省略があるのかどうかを曖昧にしている。

 

これが英語ならば簡単だ。

“Are you a student from Hokkaido?” “Yes, I am.”

“I am”の次の省略を補うとすれば、構造的にだれでも簡単にできる。

 

(★ある友人が、私の省略の論文はインターネット上で読めるよ、と連絡してきた。それは知らなかったと見てみると、なるほど読める。よろしかったらちらっと最初の方だけでも見てやってください。http://ci.nii.ac.jp/naid/110008674565

 

(★次回は「主語省略」へ入る。日本語では主語はよく省略されるが、英語では原則として省略されない。では世界のほかの言語はどうなのか。英語と日本語でどちらが普通の言語なのかといったことから、日本語の主語省略を少し詳しく検討してみたい。)

 

 (つづく)

日本語における「主語省略」の問題(2)

Posted on 2015年3月2日

●日本語の「省略」ってどうなっているの? 英語の場合は?(1)

 

いつものようにJR総武線快速に船橋駅で乗った。優先席が空いていて、その前に数人の女性たちが立って話していた。「ここ座っていいですか」と聞いたら、「あー、どうぞ」と言われて座った。隣は私と同い年ぐらいの男性で、見るとなにやら校正のようなことをしている。

 

ちらちら覗いてみると、辞書の校正らしく、「お菓子」「お米」「お煎餅」「お豆」…といった「お」がつけられる名詞(美化語と言うらしい)がアイウエオ順に並んでいる。へー、この人は辞書をやっているんだと興味をそそられた。少ししてまたちらっと見ると、その欄外に「主語省略」「述語」と大きめの文字で書きつけてある。

 

「イヤー驚いた、主語省略などに興味を持っている人がこんなところにいた」と思ってドキドキした。これを逃す手はないと、「失礼ですが、辞書をおやりですか。実は私も英語の辞書を作ってきまして」と話しかけてしまった。

 

その方は「お」「ご」のつく丁寧語、美化語を整理していると言われた。話ははずんで、「主語省略」のことも話した。名刺をいただいた。言語工学研究所の代表だと言われる。名刺がなくて、あとでメールを送りますと言って別れた。

 

帰宅して、その方のブログを見ると、電車の優先席でのシニア同士の交流として、私との出会いが紹介してあった。国分芳宏さんとおっしゃるその方のブログと論文で「主語省略」と「述語(動詞+助動詞・助詞)」の関係の裏付けが得られて有難かった。国分さんのブログを紹介したい。ブログ http://kokublog.asablo.jp/blog/  「古きよき国分」よろしかったら、ちょっと覗いてみてください。

 

●(1)英語における省略のルール

英語の短編小説や随筆などから、省略があるなと思った部分をカードに取り、カードが600枚ほどになったので、その省略を補いながら分類した。

 

該当の例文の中、あるいはその前の文によって大部分は省略を補うことができた。それもかなり簡単に、機械的にできた。また分類も、目に見える具体的な構文ごとに分けることができた。前に予想していた通りに仕事は進んだ。

 

そのルールを一般化すると、

A:英語は「構造の前後関係」によって省略を行う。

英語は、もしもその省略を補うとすれば、「構造の前後関係」(structure)を目安にする。

 

(1) I shall believe the words, but nothing more.

(私はその言葉を信じるが、それ以上のことは信じません。)

 

この省略を補うと、

I shall believe the words, but [I shall believe] nothing more.

 

このように文法構造的に同じ語句を補えばよい。さかのぼっていって、その文の中に、あるいはひとつ前の文に、同じ語句を見つければよい。原則としてそのテキスト内に復元先があり、しかも、復元の仕方は一通りしかない。

 

(2) We appointed Paul chairman of the conference, and Tom secretary.

(私たちはポールを会議の議長に、トムを書記に任命した。)

 

これも省略を補うと、

We appointed Paul chairman of the conference, and [we appointed] Tom secretary [of the conference].

このように復元先はさかのぼっていくとあり、復元先と文法構造が同じで、復元の仕方は一通りしかない。

 

実際に600用例のうちの300ぐらいを復元してみたが、九分通りこれで復元できた。

 

もう少し用例を見てみよう。

(5) You know so much, where is she? [She is] Dead. Or [she is] married….(よくご存じでしょう。彼女がどうなっているか。死んでいる。あるいは、結婚しているとか…。)

このように「主語+述語(動詞)」の形で省略されている例は多い。

 

また、述語(動詞)だけの省略も多い。

(6) On one side of the green is the church, and near it,   [is] the village inn.(草原の一方の側に教会があり、そして その近くに村の宿屋があります。)

 

唯一例外的な省略がある。それは「頭部省略」と呼ばれる。

(7) [Are you] Going to be the strongest men in the world?

((君たちは)世界で一番強い人になろうと言うのか。)

(8) [It] Sounds a little funny to you, does’t it?

(あなたにはちょっとおかしく聞こえるかもしれないけど。)

 

このように話し言葉において、復元先には関係なく、Iやyouのような「人称代名詞」、「代名詞+be動詞・助動詞・いくつかの意味の軽い動詞」などを省略することがある。これはかつて軽く発音していたものが、発音しなくなったと考えられるものだ。これは上記のような代名詞、be動詞、助動詞、いくつかの動詞に限られ、広く応用できる用法ではない。「閉じられた用法」で慣用的なものとしてよいだろう。

 

(つづく)

日本語における「主語省略」の問題(1)

Posted on 2015年2月10日

●日本語の文法、英語の文法を知ることは力になる

 

「日本語ではよく主語が省略される」とか「日本語は省略が多くて曖昧だ」などとしばしば言われる。

 

私は若いときにこの点が気になり、レポートを書いたりした。高専に就職し、研究論文が義務づけられて、まず最初にこの「省略の問題」を扱ってみた。その結果、大きな反応があり、『英語教育』誌に取り上げて頂いたり、郵便でのコメントをたくさん頂いたりした。その後も何年も経っても院生・教師の方々からお手紙を頂いたりした。

 

それから50年近くの間、ときどき考え直したりしてきた。それほど徹底的に考察したわけではないが、ずっと気になっていた。そんなわけで、省略の問題、特に主語省略、ほかの言語の主語省略、なぜ主語省略が許されるのか、もともと日本語には主語はないのではないか、こういった問題をやさしく説明できないかと考えた。

 

この雑文のエッセイも100号を超えて、このへんで初めて文法の問題を取り上げることにした。私は、基本的な学習文法の習得こそ日本人が日本語で自分の意見を発表し、文章で相手を納得させる方法をつかむために有効だと思っている。

 

また、今、日本人の英語習得についていろいろな意見が出ているが、ただ単に英語の練習を続ければ、英語はやがてできるようになるとは思っていない。英語はどんな言語で、日本語とはどこが違うかを学び、われわれの弱点を文法面からカバーして、その面を特に訓練することによって、英語が使える日本人になれると考えている。

 

そのような観点から、「省略の問題」を取り上げて、日本語と英語の違い、世界の言語の中での英語および日本語の位置などにも少し言及しながら、日本語の特徴を浮かび上がらせることができればと願っている。

 

(つづく)