言語情報ブログ 語学教育を考える

日英語言葉のエッセー(その15)(“宿題”で考える教育のこと)

Posted on 2014年11月11日

(1)日本では、8月の末になると、テレビが、“良い子の皆さん、宿題はもう終りましたか?”といった呼びかけをすることがあります。私は、「良い子ならば、宿題なんかきちんとやるよ」と反発したくなります。欧米では、9月から新学年が始まるのが通例ですから、夏休みに宿題が出ることは無いわけです。

 

(2)学制が違えば、いろいろと違った指導面があって当然だと思います。ただし、日本の場合は、「小中学生は放任すると遊んでしまう」という意識が指導者たちに強くあるのだと思います。欧米では、いろいろな団体が、様々なキャンプ(camp)(基本的には野外生活の訓練)を用意していて、水泳、登山など目的に応じて選択して、楽しくかつ有意義に夏休みを過ごすことが多いようです。教員も完全に休みですから、その間に、修士や博士の資格に必要な単位の取得を心がける人も多いのです。

 

(3)私には、2年年上の姉がいましたが、昭和10年代の女学校でも、夏休みの宿題が出されていました。その中には、“自由研究”といった課題があって、「お裁縫でもお料理でも、何か新しいものを作りなさい」といった指示だったと思いますが、姉は夏休みの終りまで、「何にしようかしら」と悩んでいました。今になって考えますと、普段の授業では創作的な活動などさせないで、宿題で苦しめるなんて、勝手な指導方針ではなかったのか、と疑問に思います。

 

(4)私の小学校での経験では、「朝顔を育てての観察日記」とか、「家族旅行をした時のスケッチ10枚(旅行をしなかった場合は自宅の近くで)」といったものが記憶にあります。私は夏休みも終わりになって母親に手伝ってもらったことがあります。提出した後で、担任の先生から、「ここは手伝って貰ったな」と言われて、“やはりバレたか”、と反省したことがあります。今でもこういう宿題は存在しているようです。

 

(5)現在は、あらゆる面の価値観が多様化していて、実態を把握するのが困難ですが、画一的な教育方針よりはマシな面があるのではないかとも思います。それと、やはり指導する教員の“腕次第”ということがあると思います。私の小学校6年生の先生は30代の男の先生でしたが、ある時、「今日は時間が少し残ったから皆から質問を受けよう」と言われ、生徒は次々と手を挙げました。

 

(6)男子生徒は、「オナラはどうして出るのですか?」とか、「オナラはどうして臭いのですか?」など女生徒が尋ねられないような質問を次々と発しました。先生は少しも動ぜずに答えてくれました。「さつま芋は、繊維質というものが多くて、身体には良いが、オナラが出やすいのだよ」とか、「臭いオナラは、胃腸の調子が良くない場合に多い。よく噛んで、ゆっくり食べるようにしなさい」のように、私が未だに覚えているような有意義な解説だったと思います。

 

(7)戦時中の小学校でも、教員の判断で、自由で有意義な授業が行われていたのです。私の体験という狭い範囲での判断ですが、日本人の教育が質の高さを誇れるのは、優秀な教員の腕に支えられていたのだと思います。「形式的に単位数さえ揃えれば、教員採用試験を受けられる」といった条件ではなく、“インターンシップ”の活用がもっと広くなされる必要性があると思います。人間は実体験によって、進歩向上することは確かなのですから、(この回終り)

日英ことばのエッセー(その14)(カタカナ語の乱用)

Posted on 2014年10月7日

(1)今年の9月末には、文科省が日本人の日常語の理解度や誤用例を公表しました。例えば、“世間ずれをした人”は、本来は、“世間の荒波にもまれてずる賢くなった人”を意味したのに、現在の特に若い世代の人たちの多くは、“世間のことをよく知っている人”の意味だと考えているとのことです。これから具体的な対策を考えるようですが、国語教育を改革するのは大変なことだと私は思います。

 

(2)英語教育ですと、「役にも立たない英語を6年以上も教えているからだ」と世間の批判がすぐに集約されてしまうのです。その結果の対策としては、“小学校の英語教育を早めよう”とか、“もっと英会話を教えよう”いうことになります。これでは、日本の教育問題は混乱するばかりで、成果など全く期待できないことになるでしょう。

 

(3)解決策を探る前に、現状をもう少し論じてみたいと思います。大きな問題の1つは、“カタカナ語の乱用”です。次の例は、日常のテレビ番組の中で使われていたカタカナ語を集めたものです。番組には国会中継もありましたから政治家たちの使用例も含まれています。

 

(4)国会での質問の1つに、「アメリカとの交渉は“オンザロック状態”ではないのか?」というのがありました。“行き詰まっている”と言えばいいのです。ちなみに、“船が暗礁に乗り上げた”は、The ship hit the rocks.(船は座礁した)のように複数形になります。“オンザロック”は、英語では、”I drink whisky or tequila on the rocks” (私はウイスキーやテキーラはロックで飲む)と言うのが普通です。この質問者は、“行き詰まる”の英語 ”come to a deadlock” をうろ覚えで“オンザロック”と言ったのかも知れません。

 

(5)「それでは収入は、“トリプルダウン”してしまうではないですか?」という例もありました。「収入が三倍下がってしまう」と言えばいいのにと思いました。野球の好きな人なら、“トリプルプレー”は分かります。“三重殺”という訳語はありますが、あまり使われません。スポーツ紙の見出しには時に見かけます。

 

(6)大臣の答弁に、「様々なアプローチを取る必要がある」というのがありました。アプローチ(approach)も広辞苑に載っていますが、テレビのニュースを聞きながら、すぐに広辞苑で調べる視聴者は何人いるでしょうか?「様々な方法を実行する必要がある」のほうがはるかに分かりやすいはずです。

 

(7)「放火犯は早く捕まえないと、ますますエスカレートするだろう」というのもありましたが、“エスカレーター”は馴染みがあっても、英語の動詞としての、escalate を意識する人はどのくらいいるでしょうか?「何となく分かる」という人は多いとしたら、国語の授業では用語の定義をきちんと教えていないと言うことになります。

 

(8)“シミュレーションしておく必要がある”というのもありました。この語も広辞苑にはありますが、定義はなかなか厄介です。遊園地などでは、“疑似体験”の出来る “シミュレーションゲーム”などがありますから、感覚的に分かる人はいるでしょう。でも言葉は、「何となく分かる」では困るのです。

 

(9)以上のような悪例を使わないようにするにはどうすればいいでしょうか?法律で決めても効果は無いでしょう。学校教育の場で、正しい表現と間違った表現の区別を学年に応じて、じっくりと教えていくよりないと私は思います。「英語が話せる人は格好いい」とか、「英語さえ知っていれば世界中どこにでも行ける」といった先入観を排除するためにも“時間をかけて教え込む”より無いと私は考えています。(この回終り)

日英ことばのエッセー(その13)(“通じる発音”とは?)

Posted on 2014年9月8日

(1)NHK の“Eチャネル”(元の教育テレビ)では、中高生向きから、成人向きまで幾つかの英語学習番組を放送しています。以前は、いかにも“講師の先生が指導します”という感じでしたが、現在は、テレビのバラエティ番組に影響されてか、かなり“くだけた形式”のものになっているように感じます。

 

(2)“勉強はあまり堅くならないで、気楽にやりましょう”という呼びかけには私も賛成ですが、発音に関してのかなり甘い判定には不満を感じます。例えば、ゴルフの人気プレーヤー石川 遼さんを参加させての“スピードラーニング”という教材の宣伝は感心出来ません。英語とその訳文を聞くだけで、“英語が話せるようになる”というのは、コマーシャル向きの誇張にしても、度が過ぎていると思います。

 

(3)これ以上具体的に指摘することは営業妨害で訴えられる恐れがありますから止めますが、英文とその日本語訳を聞いたからといって、“英米人に通じるように話せるようになる”とは、私は思いません。このことは、私の60年に及ぶ英語指導の経験から断言できることです。学習者の中には、“発音のすばらしい天才的な能力の持ち主”がいることはありました。しかし、それはあくまでも“例外”です。

 

(4)テレビのバラエティ番組などで、タレントたちが英語学習時代の思い出を語ることがありますが、「このように、発音に関する注意をされた」という声を聞くことはまずありません。「何回も同じことを全体で言わされた」、とか、「声が小さいと叱られた」といった内容のものがほとんどです。

 

(5)話は変わりますが、ラジオやテレビの番組では、視聴者の声を聞くために、「ここへお便りをして下さい」と頼むことがあります。そして、「その際はお名前には必ずフリガナをつけて下さい」と付言しています。しかし、実際にはフリガナを付けない人が多いらしく、アナウンサーが、「この方は、小林サチコ(幸子)さんでしょうか、ユキコさんでしょうか」と困ることがよくあるのです。うっかりして、フリガナをつけるのを忘れるのでしょうか?そうではないと私は思います。

 

(6)中学1年生に英語を教えていると、順番に名前を言わせる場合があります。その際に、”My  name is….”は声が大きいのに、肝心な“名前”になると、声が小さく、早口になってしまうことがよくありました。私はこれは“日本人の民族文化”に関わる問題だと考えています。つまり、日本人は“自分の名を名乗る”ことに“ためらいを感じる”ことが多いのです。NHKが日曜日のお昼に放送している“のど自慢大会”でも、入賞者は、名前と住所を尋ねられますが、自分の名前のところは早口になることが多いように感じます。

 

(7)テレビの無い時代は、ラジオを聞くことが主な娯楽になっていましたが、私は小学校5,6年生の頃には、講談を聞くのが楽しみでした。戦国時代の合戦の最中に、大将らしき武士が大声で、「やあ、やあ、我こそは~軍の大将であるぞ。いざ、尋常に勝負せん」と言うと、周囲の雑兵どもは、小競り合いを止めて、大将同士の合戦を見守るのでした。大将同士の勝負がつくと、負けた方の軍隊は一斉に退却を始めて、勝った方の軍隊に蹴散らされてしまうのでした(広辞苑で“名乗る”を引くと、例が示されています)。

 

(8)こういう民族文化は、誇るべきものとして維持すべきでしょうか?それとも、グローバル化に合わせて、改善すべきでしょうか?私はまだ結論を出せないでいます。(この回終り)

日英ことばのエッセー(その12)(日本人と英語教育)

Posted on 2014年8月5日

(1)マーク・ピーターセン『英語の壁』(文芸春秋、2003)に、「なぜ日本人は英語が下手なのか」と題する章があります(p. 117~)よく読んでみると著者は本当にそう思っているのではなくて、こういう題名のシンポジウムにパネリスト(パネラーは和製英語)として招かれたことがあって、「なぜ日本人はいつもこういうネーミングを好むのであろうかという不思議な気持ちのまま、会場へ向かった」とあります。

 

(2)日本人が自虐的な表現を好むのは確かですが、外国人が思うほど、深刻には考えていないのが実情でしょう。いろいろな場合が考えられますが、“うそをついているほどの気持ち” ではなく、“話し相手への配慮”くらいの意識だと思います。このことは、日本と全く違う環境で育った外国人には理解しにくいことだと思います。日本の国会議員の議場での発言を聞いていますと、敬語の使い方が間違いだらけです。特に相手が野党議員だったりすると、相手を尊敬する気など全く無いことは明らかです。日本人は、本音と建前の差が大きい民族なのだと思います。

 

(3)ピーターセン氏は、さらに、「日本人の英語学習者の中には、中学、高校から大学まで、英語の授業を受けながら、“英語はさっぱり分からない”と考えている人が多いし、その気持ちも分からないでもない」と同情を示してくれています。しかし、一方では、「自分で反復練習するという努力をする生徒も少ないようだ」と痛いところも突いています。

 

(4)ピーターセン氏は、「日本の英語教育がいちばん間違っているのは、全国民に英語だけを教え込もうとしていることだ」という趣旨のことを述べています。私は自分のブログでも述べたことがありますが、アメリカの若い大学生から、「1つの外国語を2、3年もやって、ものにならないと思ったら、別の外国語をやるか、外国語は諦める」と言われた経験があります。日本の高校生は英語一点張りで、選択の余地はほとんど無いのです。

 

(5)鈴木 孝夫『日本人はなぜ英語が出来ないか』(岩波新書、1999)には、「日本人は日常生活では、英語などを全く必要としない。そこがアメリカやイギリスの植民地であった現在の独立国とは、事情が全く違うのだ」という趣旨の指摘があります。私は、現在ではこの考え方は修正する必要があると思います。独立国としては、それぞれの事情に応じて、外国語教育を実施しているでしょうが、やはり英語が選ばれているとしたならば、それなりの理由があると考えるべきで、日本人のように、“英語さえ出来れば”といった安易な姿勢は、少ないのではないでしょうか?

 

(6)昭和30年(1957)頃、私は高校生を教えていましたが、英語の得意な生徒が3年生になって、進路相談をすると、外国語大学を志望していることが分かりました。私は、「君ならきっと受かると思うが、これからは英語の出来る学生が益々増えるから、例えばスペイン語などを専攻してみたらどうだろう」と提案してみました。その生徒は素直に応じて、スペイン語を専攻したのですが、「日本の銀行に就職したのですが、スペイン語の力を活かす機会が無くて苦労しましたよ」とだいぶ後になって、クラス会で会った時に言われてしまいました。

 

(7)私としては、「どこか商社に勤めれば、活躍出来るであろう」という見込みで提案したのでしたが、それが外れて迷惑をかけたと、反省しました。それはともかく、当時の高校生は、素直なばかりでなく、自主性があって、“勉強は自分で努力するものだ”という意識が強かったように思います。現在の若者たちはどうでしょうか?もちろん、個人によって大きな差があるとは思いますが。私には、今の高校生を指導する資格は無いような気がしています。(この回終り)

日英語言葉のエッセー(その11)(“ドラえもん”マンガの考え方)

Posted on 2014年6月9日

(1)何日か前に、TBS のラジオ番組で聞いたのですが、日本の人気漫画の“ドラえもん”は東南アジアの諸国などでもとても人気があるようです。ドラえもんがポケットから出す、“竹コプター”とか、“どこでもドア”は新しい冒険の世界へと導いてくれますから、特に子どもたちには夢と想像力を与えると考えられているようです。

 

(2)ところが、“ドラえもん”が住んでいる家の男の子“野比のび太”は、学校の勉強は好きではなく、かなりだらしない生活を送っています。しかし、“ドラえもん”にお願いすると、“竹コプター”や“どこでもドア”で、いろいろな冒険を経験できるのです。子どもばかりではなく、大人にも好評のマンガで、ここ4,50年の間にテレビで放映されたばかりでなく、映画にもなりました。作者は、藤子不二雄氏です。

 

(3)日本の小学生などは、そういう“のび太”に自分を重ね合わせて、わくわくしながらこのマンガを楽しんでいるとのこと。ところが私の聞いたところでは、このマンガの評判が悪いのはアメリカだというのです。特に親の世代には不評で、「独立性のない子どもを主人公にしたマンガは読ませない」と強硬なようです。

 

(4)アメリカといっても、国土は広大で、移民も多いので一概には言えないと思いますが、マスコミの力が強いので、「こんな自主性のないマンガはダメだ」ということになれば、同調する国民が多いこともうなずけます。日本では、「面白ければ何でもいい」というテレビ番組の制作姿勢がありますから、“ドラえもんマンガ”に批判的な声を私は聞いたことがありません。

 

(5)このマンガの登場人物には、“ジャイアン”と呼ばれる小学生にしては身体の大きな男の子がいて、のび太はよくいじめられます。こういう“いじめっ子”に当たる英語は、“bully” というようです。“のび太”は、時には“ドラえもん”の力を借りて見事に復讐をします。“いじめられっ子”は、そんなところで、うさをはらしているのでしょうか?そう考えると、このマンガの作者は現代の小学生たちが直面している問題を提起してきたと考えることが出来ます。

 

(6)今日の先進諸国の中では、若者の自殺者が最も多いとされる日本ですが、学校長や教育委員会は、「いじめがあったとは認識していない」などと責任逃れの弁解をします。そういう人たちには、“ドラえもんマンガ”をよく読み直してもらいたいと思います。

 

(7)私的なことになりますが、私は筑波大の在任中に短期間ですが、“ドラえもんマンガ”の一部を教材として使用したことがあります。例えば、「どこでもドア」は英語でどう説明したらよいか、といった質問をしました。英作文の力の弱い学生は、“everywhere door” とだけ書いたりしました。英語の得意な学生は、“The magical door through which you can visit any place in no time” とした例がありました。文句なしの合格点です。

 

(8)なお、“ドラえもんマンガ”は、“You Tube” で幾つかの場面を見ることが出来ます。私は、フランス語版は探せましたが、英語版はまだ見ていません。どういう英語にしているかを確かめましたら、いずれまた取り上げたいと思います。(この回終り)