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浅野:英語教育批評:「脱英米」英語教育のこと

Posted on 2007年6月12日

「アメリカ英語のような大言語は、帝国主義の言語だから教えるべきではない」とか「国際化の中では、英米一辺倒は避けるべきもの」という趣旨の主張は強い。「強い」といっても、意識的にそういう趣旨の本や記事を読めばの話で、多くの英語教師は無関心のように見える。無関心と言って悪ければ、そこまで考える余裕がないほど日々の教育活動に追われている。
文科省のほうは、「日本人に英語力をつける」という方針を着々と実践に移していて、中学校英語の必修化、小学校の英語活動実践、英語教員の研修などが実現している。一方では、特区やプロジェクト制度などによって、学校の多様化を図り、結果的には英語力ばかりでなく、学力全般の格差を生んでいる。
では“理論的反論”のほうはどうであろうか。「ペンは剣よりも強し」とは昔から言われているが、ほとんど無力である。民主主義社会では選挙結果がすべてなので、与党優勢の現状では、反対論はほとんど無視されてしまう。安倍首相の施政方針演説には「カタカナ語」が百以上使われていたそうだが、英語信仰者にとっては、「かっこいい!」ということになる。会話学校がネイティブ信仰のTVコマーシャルを流せば、多くの視聴者はひとたまりもない。おまけに小泉前首相のように、「ブッシュ一辺倒」で、自衛隊の海外派遣まで実現させてしまえば、英語教育で「英米一辺倒反対」と叫んでみたところで「千の風」にもならない。反対論などどこ吹く風だ。
「脱英米化した英語教育」は実体がわからないから説得力がない。「アジアの英語に目を向けよ」という声もあるが、もちろん偏見を持たないようにすることは大切だが、多くの日本人がフィリッピン英語やタイ英語を学ぶというのは現実的であろうか。タガログ語やタイ語を学んだほうがはるかによい。挨拶や自己紹介くらいならともかく、片言の英語でアジアの異文化を相互理解するなんてできるはずがない。日本の言語教育の考え方はどこか狂っていませんか。
(浅 野 博)

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