言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:論理的であること

Posted on 2007年9月18日

 「論理的な考え方」については、前に三森ゆりか『外国語で発想するための日本語レッスン』を紹介して、考えたことがある。今回の話はそう難しいことではなく、安倍首相の辞任劇を例に「論理的な考え方、ものの言い方」を考えてみようというものである。
 安倍首相の突然の辞任は、「無責任だ」「職場放棄だ」と非難の声が強い。もともと、言語面でも首相の器ではなかったのだと思う。話し方が下手といっても、「言語明瞭、意味不明」というほどではない。一言で言えば、「単純すぎる」のである。例えば、参院選挙の街頭演説では、「野党は何をしましたか?野党は何もしていません!」と絶叫していたが、これはおかしな責め方だ。過半数を持たない野党は、政府批判以外にほとんど何も出来ないのは当然のことだ。首相には「審議拒否」のことがあったのであろうが、それではなぜあんなに強行採決をしたのかに答える義務が生じてしまう。教員や社保庁の職員のことについても「これからは悪い人は辞めてもらうことが出来るのです」と言っていたが、これも単純すぎる。「仕事ぶり」からだけ判断して、免職させられるかどうかは、そんなに簡単に決められる話ではない。辞任の弁では、「テロ特措法」のことばかりを後継者に期待していたが、まず公約を実行できなくなったことを国民に謝るのが先だ。
 身体的に無理があったならば、まず検査入院をして、医者の見解が出てから、「体力に自信がないので辞めさせてもらいたい」と言えば、同情こそされ、非難されることはかなり回避できたはずである。そういう手順を誤ったから、後継者問題にからんで、陰謀説だの、クーデター説まで出ているが、「一寸先は闇」と言われる政界に身を置くには、人が好すぎたのであろう。
 最後の自己反省を1つ。教員も生徒、学生にどう思われているかを常に気にすべきである。しかし、容易に本音を見抜かれるようなパフォーマンスだけは避けなければならない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:国語教育の改革とは(その2)

Posted on 2006年10月27日

 日本人には「欧米式の読み方」つまり「論理的で批判的な読解力」をつける必要があるということを主張している三森ゆりか氏(9月27日)と有元秀文氏(10月19日)の書物に言及した。ところで、石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書、2005)は、この2冊と違って、実際に使われている採用率の高い国語検定教科書を分析しながら、国語教育のあり方を論じている。そして「強いられるコミュニケーション」と題する節があって、中学校の教科書では、「意見を表明する」「ディスカッション」「ディベート」などの言語活動が用意されていることついて次のように述べている。

 これだけ「伝え合う」活動に比重が置かれたこの教科書に沿って、慌しく「伝え合う」授業を繰り返していったのでは、たとえば「内省」といった自分自身とじっくり向き合う高度に文学的な(「教養的な」と言うべきかもしれない)営為を行う時間的なゆとりも、正当性も奪われてしまうだろうと言いたいのである。(p.149)

 有元氏の書物では、国語の授業では「コミュニケーション」が軽視されてきたから、「もっと話し合いを」「もっと交流を」と主張している。こういう相反する指摘は、私はそれぞれ間違っていないと考える。つまり、ほとんど話し合いのない講義式の授業もあれば、「さあ、あなたはどう思う」「考えたことを話し合いなさい」といった“交流”ばかりを目指す授業も存在することは容易に想像できる。その点は英語教育も同罪である。ただ日本語に直すだけの訳読式授業もあれば、内容のない英語による問答ばかりの授業もある。こういう現状では改革は道遠しであろう。「朝読書」の時間を設けている学校も増えているというが、その効果が現れるのにはさらに時間がかかるであろう。
(浅 野 博)