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浅野:英語教育批評:「英語教育禅問答」

Posted on 2009年4月16日

 英語のテキストに、”Introducing the Japanese Mind” (金星堂、1988)というのがあった。中根千枝氏など日本文化に造詣の深い人たちの英文エッセー集で、その1つに座禅を禅問答式に説明したものがある。「精神と肉体は2つのものであり、また1つのものでもある」といったように。
 そこで、次のような英語教育禅問答を想定してみた。
A(英語教師):指導要領は必要なものでしょうか?
B(禅僧):必要でもあり、必要でもない。
[解説1] 私自身は、30代に検定教科書の編集に関わるようになってから、指導要領を意識するようになった。それまでは、指導要領など読まなくても教えられたし、同僚や先輩の授業を見たり、自分の授業を見られたりして、教え方を学ぶことができたと思う。「英語教育」2009年5月号(大修館書店)は、新学習指指導要領の特集をして、最初に5氏による座談会を掲載している。雰囲気として高校教師に対する不信感が感じられて、これでは指導要領の趣旨徹底は難しいと感じられた。
A:英吾の授業は英語でなされるべきですか?
B:英吾で行うのも正しい、行わないのも正しい。
[解説2] 上記の座談会では、「あまり重要な事項ではない」とか「文法の説明まで英語でやれということではない」といった趣旨の発言がある。しかし、「授業は英語でやることを基本とする」という文言は、「日本語を使うのは例外的」ということではないのか。そうでないならば、「必要に応じて、英語を効果的に使うようにつとめること」くらいにしたい。ちなみに、『新明解国語辞典』では、「基本」を「その物事を成り立たせる上で不可欠な要素」と定義している。
A:指導要領の用語はわかりにくいものがあるのですが?
B:「ことば」はすべて、易しくもあり、難しくもある。
[解説3] これまでは、「言語活動」「概要と要点」「実践的コミュニケーション」などが問題になった。「概要と要点」などは、日常語でもあるが、指導要領で、「概要」は中学2年で、「要点」は3年で教えよ、などと言われるととてもわかりにくいのである。同誌の斎藤兆史氏の批判と提案(「英語教育時評」)に座談会の諸氏はぜひ応えてほしいと思う。
(浅 野 博)