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浅野:英語教育批評:「用語」の魔力

Posted on 2008年3月11日

 敗戦直後は「民主主義」「主権在民」「戦争放棄」など当時の日本人には魅力のある用語があふれていた。「自由平等」もその1つである。しかし、2、3年もすると「反動勢力」「再軍備」「日帝」などの言葉が聞かれるようになった。ただし、日本ではこれらの用語の厳密な定義や問題点を十分議論することはなかったように思う。この傾向は今日でも同じで、日本人の民族的性癖と考えてもよさそうである。もちろん、一部の学者や評論家は細かく論じることがあるが、
一般的な常識にはならないのである。
 「自由平等」という熟語はないはずだ。自由であれば、平等ではなくなり、平等であれば自由ではなくなるのだから、相反する用語を繋げることは無理なのだ。しかし、一部の日本人は「平等主義を徹底させる自由がある」と勝手に解釈をして、運動会のかけっこでは、「みんな手をつないでゴールインしましょう」といった指導をしたとされる。あるいは自分のクラスの授業をせずに自習をさせて、「私は生徒の自主性を育てている」などと言う教師もいた。
 アメリカは「出発点は平等で、あとは自由に競争する」ということで、この「自由と平等」の問題を解決しようとした。確かに、「丸太小屋からホワイトハウスまで」という理想はリンカーンによって実現されたりもした。これは“アメリカンドリーム”だ。でも、その背後には大勢の「夢破れた敗者」が誕生したはずである。つまり民主主義というのは、独裁よりはましということで、最善の方法ではないわけである。この問題は、少し古いところでは、阿部斉『デモクラシーの論理』(中公新書、1973)がくわしく論じているし、最近のものでは、佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』(ちくまプリマー新書、2007)がある。なんでも会議にはかって、多数決で決めることが最善と信じて疑わない日本人社会では、“責任の所在”があいまいになってしまった。それが一部経営者の独裁的経営と道徳的退廃を招いていることをもっと認識すべきであろう。
(浅 野 博)