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浅野:英語教育批評:「和文英訳」で感じた日本語の問題点(その2)

Posted on 2006年9月11日

 呉智英『言葉の常備薬』(双葉社、2004)は、言葉遣いを厳しく論じたエッセー集であるが、「言わなくてもわかる」という1節がある。駄菓子屋で店番の人がいないときは、客は「ください」と言うようだが、当時18歳で上京した著者は、これを聞いて「非論理的で異様な言葉に思えた」と言う。著者の生まれ育った地域(愛知県)では、「あのー」「ちょっとー」とか「パンください」と言っていたのだが、やがてこういう表現にも慣れてきたと言う。この点を愛知県出身の旧友にも確かめたが、「ごめんくださーい」などとは言うが、「ください」は経験がないとのことだった。私自身は東京および周辺の育ちだが、「ください」は使った記憶がある。日本は決して広い国ではないが、言葉の分布は非常に多彩だ。
 英語教師は「英語では、相手の方に『行く』のはgo ではなくてcome だ」と注意するが、私が「そういう言い方は日本語でもやっていた」と九州出身者に言われたのはずいぶん昔のことだ。つまり英語教師は、生徒の方言と共通語の知識や運用能力についても知っていなければならない。
 吉田研作・柳瀬和明『日本語を活かした英語授業のすすめ』(大修館書店、2003)は、積極的な日本語の使用を説いているが、上記のような省略表現への配慮もなされていて、具体的で創意にも満ちている点が多い。英語教師は、「英語で授業しないのはダメ教師」という声におびえて、しぶしぶ英語を使うか、自己流の訳読式で開き直るかしかない。それでは困るのは生徒だ。
(浅野 博)

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