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浅野:英語教育批評:若者指導の落し穴

Posted on 2008年2月12日

 私は50年ほど前には約60名の大クラスの高校生を教え、5年前には 25名程度の大学のゼミクラスを教えたが、前者のほうがずっと指導しやすかった記憶がある。昔の学校にも不良学生はいたが、彼らなりの“仁義”があって、クラスで先生に反抗することはなかった。しかも、保護者の先生に対する信頼感はとても厚く、教員としても襟を正さざるを得なかった。
 現在は、携帯電話やゲーム機など、授業より興味を引くものを教室に持ち込める。そうでなくても、大クラスでは、私語、居眠り、お化粧など授業をサボる手はいくらでもある。
 70年安保闘争が下火になった頃から、「高校生の三無主義」ということが言われ出した。これは彼らの「無気力、無関心、無責任」な態度を指していた。その後「17歳」という年代が問題にされたこともあった。わが国では多くの問題が「分析はされるが、対策がなされない」ので、彼らがそのまま大人になり、社会の中心的存在となれば、世の中がおかしくなるのは当然のことなのだ。
 1997年には和田秀樹『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)という本が出て、「受験勉強が諸悪の根源だ」とする見解にはなんら根拠が無く、受験勉強でノイローゼになるのは受験生の1%(当時は約1万人に当たる)に過ぎないとし主張した。さらに、受験勉強を経験した人間のほうが、この時期を野放図に過ごした人間よりはるかに精神的に健全であると説く。著者が灘高、東大出身の精神科医となると、こう主張するのもうなずける。後に著者はいくつかの勉強法を説いて、自分が決して秀才ではなかったことを強調しているが、問題は、この書物には受験制度とか受験問題とかへの批判がほとんどないことである。それは精神科医の仕事ではないかもしれないが、社会現象を論じるのに、一つの視点からだけものを見ていたのでは意味がないのではないか。しかも、現在の受験競争は幼稚園児などの低年齢層に及んでいる。若者指導の話には、大きな落とし穴があることは十分に意識すべきであろう。
(浅 野 博)