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浅野:英語教育批評:言語教育の基本について

Posted on 2007年8月7日

 昔、筑波大で同僚のアメリカ人に「日本の学生にはもっと expository prose を読ませるべきだ」と言われたことがある。
“expository” というのはあまりなじみのない形容詞だが、元の名詞は”exposition”で、「説明、解説」ということだ。学生の書く英文は、
“I think this book is interesting.” とか
“Nikko is very beautiful.” といっただけのものが多く、具体性に欠け、説得力がない。もっと「説明文」を読んで、文章の構成を学ぶべきだというわけである。これは英語ばかりでなく、日本語の問題でもあろう。
 説明文ですぐ思いつくのは、機器の「使用の手引き」である。この素人向きの解説書の文章がわかりにくいことはかなり前から指摘されているが、城生伯太郎『日本人の日本語知らず』(アルク、1989)は、そういう問題を本格的に取り上げているものの1冊である。当時のビデオカメラの説明書を例に「わかりにくさ」の原因を追究している。
 文科系の人間は、理系の人間は理路整然とした考え方をするから、書く文章もそうだろうと思いがちである。理系の人はお互いに共通知識があるから通じるけれど、素人相手に明快な説明することには慣れていないのである。コンピュータの普及によって、説明すべきことはさらに多岐にわたるようになったが、用語の定義をしないで、ただカタカナ語にしているだけだから、さらにわかりにくくなった。付随の「ヘルプ」といった情報はほとんど役に立たない。英語学習の場合に英英辞典を引くと、その説明の単語がわからなくていらいらしたものだが、最近の英英辞典は、非常に改善されて、「説明用のことば」を特にやさしくしている。国語辞典はもっと見習うべきだ。
 要するに言語教育の基本としては、創造性とか独創性ばかりを強調するのではなく、「あたりまえ」のことがわかり、言えることをまず「あたりまえ」のことと考えたい。
(浅野 博)