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浅野:英語教育批評:「姓名」のこと

Posted on 2007年11月6日

 10月16日号で、「名前教育」の必要性を提案する記事に関連して、英語学習の初歩的段階では、単純な名前の使用でよいではないか、という見解を述べた。この記事の著者(大高博美・杉浦香織の両氏)も、そういうことには理解を示しているが、大学生になっても名前の知識に欠けている現状を改善すべきだとも言っている。それももっともだと思う。
 2年前の「英語教育」(2005年11月号)は、「英語の名前の謎」を特集した。そこには英米人の名前に関する多種多様な情報があって、一読したときは、英米人の名前について学ぶだけでも大変なことだと感じた。姓名の表記では、文化庁が「ローマ字表記でも姓+名が望ましい」としたために、英語の教科書は、あまり議論もなく、ほとんどそれに従うようになった。しかし、大リーグの日本人選手は「名+姓」で呼ばれているし、松坂大輔投手などは、“Dice- K” と表記される。これでは音は伝えられても、「さいころケーちゃん」だ。しかし、違う言語では違う表し方をするのはやむを得ないことでもある。
 最近出版された大谷泰照『日本人にとって英語とは何か—異文化理解のあり方を問う』(大修館書店、2007)には次のように述べている箇所がある。

 日本語を書く場合ならともかく、英語を書く場合でさえも、日本人であるという理由だけで、なお日本語式「姓+名」で押し通そうとする姿勢は、日本旅行を英語で押し通す英米人や、韓国旅行を日本語で押し通す日本人にどこか似ていることに気づかねばならないであろう。(p.179)

 この見解には私も同感で、姓名を逆にしたらアイデンティティーが失われるとも思わないが、名前の問題以前に、“脱日本人”を目指している英語学習者が多いのは確かだ。上記「英語の名前の謎」の執筆者の一人、榎木園鉄也氏の「人間は誰しも出自の言語文化に誇りと愛着を持つが、社会の主流の姓に同化せざるを得ない人たちがいた歴史も忘れてはいけない」と述べていることは心に留めおきたい。
(浅 野 博)