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浅野:英語教育批評:英語教育と「語用論」(その1)

Posted on 2007年4月2日

 私は1986年頃に Levinson のPragmatics を読んで、新しい用語の理解に苦労をした。1990 年には、この本を訳した安井稔・奥田夏子訳『英語語用論』(研究社出版)が出て、それを奥田先生から贈って戴いたので、500ページくらいの大冊を短期間で読むことができた。語用論の発達の歴史や問題点を知るには便利な書物だ。
 1980年代になると、英語教育では“コミュニケーション能力”が話題になって、教室の指導では、伝統的な This is a pen. のような英文が消えて、「会話」中心になっていった。その背景には語用論の発達もあったであろう。しかし、この基本表現は教えざるを得ないので、各教科書は、そのための自然な状況や文脈づくりに苦労している。
 私は戦時中の中学の国語の授業で、金田一京助が、アイヌ語を学ぶのに、まず「これは何ですか」という言い方を習い、それを身近なものを指しながら使って、ものの名称を覚えていったという話を読んだことがある。したがって、英語の教科書で、What is this?—It’s a pencil. といった文を見ても当然な気がしていた。実際にこれだけの英文でも学ぶことは多いのだ。What is が What’s になること、this がit になること、「鉛筆」が a pencil になることなどを知る必要があり、それ以外に単語の発音やイントネーションの問題も加わるのだ。今日では、自然な状況や場面に重点を置くから、生徒は何だかわかりにくい絵や写真を見ながら、「何だろうと」考えるのに時間を割いてしまい、10分くらい使っても、数人がこの文を言うだけのことになりがちだ。パタン・プラクティス全盛の頃は、50人を越えるクラスでも、短時間で一人が何回も言えるようにドリルしていたと思う。語用論から何を学び、何をいかに教室で教えるかは古くて新しい大問題なのではなかろうか。
(浅野 博)