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浅野:英語教育批評:「ネイティブ・スピーカー信仰」(その2)

Posted on 2007年10月23日

 8 月28日のブログで、(その1)を書いたが、これはその続き。「東書Eネット」10月号で、北野マグダ先生が第3回目のエッセーを発表された。そこでは、「父は、ドイツに一度も行ったことがなく、大学で勉強しただけでドイツ語を教えるようになりました」ということで、「アメリカの学校では、上手に話せる人よりも上手に教えられる教師が求められているのです」と述べておられる。
 これは、外国語教育の目標に関係する基本的な問題を提起していると思う。日本人には、「英語を話せるようになりたい」という願望が強い。それがネイティブ・スピーカー信仰 (native-speaker fallacy) に繋がる。しかも、この場合のネイティブ・スピーカーは英米の白人であるのが普通である。(’fallacy’ は「間違った信念」ということで、「信仰」は、悪い意味の用語ではないが、意味範囲が広くなってきている。)
 山田雄一郎『言語政策としての英語教育』(渓水社、2003)は、その第2章でALTの問題を本格的に論じている。ALT は JETプログラム(語学指導等を行う外国青年招致事業)によって主に中・高に派遣されている語学助手である。この章の第1節は、「ネイティブ・スピーカー幻想」と題してある。つまり、「ネイティブ・スピーカーから教われば、英語が話せるようになる」といった願望は非現実的な夢に過ぎないのではないかというわけだ。その証拠に、経験も資格もない英語教師を世界中に派遣しているイギリス政府の方針に、「新植民地主義だ」と国内から批判が起こっていることを冒頭に紹介している。
 在日ブリティッシュ・カウンシルから外国人教師を勤務先の大学に何回か紹介してもらった経験のある私としては、中東や東南アジアで英語指導の経験をつみ、よく勉強もしている立派な人物がいたことも指摘しておきたい。「幻想」に惑わされてしまう日本人の側の問題も大きいのである。
(浅 野 博)