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浅野:英語教育批評:教師と年齢のこと

Posted on 2007年2月21日

 友人の行方昭夫さんが、モームの『サミング・アップ』(岩波文庫)の翻訳を世に問われた。私が新米の英語教師の頃(1955年前後)には、モーム・ブームがあって、入試問題にまでモームが出るというので、高校生相手に短編などを読んだものだ。当時の高校生は英語の力は弱くても、知的好奇心は強くて、懸命に努力してくれた。しかし、今この新しい翻訳で読み直してみると、複雑な心境になる。3章には次のような一節がある。

 青年時代には、年月が自分の前方にずっと続いているような気がして、終わりなどありそうに思えない。中年になってからでも、最近は寿命が延びているので、やる気はあってもあまりやりたくないことは、何か口実を探して先延ばしにしようとする。だが、自分が死ぬことを考慮に入れなければならない時機が遂にやってくる。(p. 15)

 この好奇心旺盛な作家は、自分の過去を振り返って文章にまとめるようなことは、やろうと思ってもなかできなかったと言っているわけだが、若い時代には「老人になること」は実感できないものだ。歌謡曲にも「青春時代が夢なんて、あとからしみじみ思うもの」という名文句がある。なぜこんなことを言い出したかというと、この新訳で読み直してみると、モームの視野の広さと人間観察の巧みさに改めて驚かされ、若いときと違う印象や解釈を得られた気がするのだ。昔は、生徒よりは英語力が少しましという程度で、指導をしたが、内容理解という点では、生徒とあまり変わらなかったのではないかと“複雑な”心境になったのである。でも、若い教師には、「若さ」は生徒の気持ちがわかる長所として捉え、努力してもらいたいし、年配の教師には、生徒の経験していない「人生」の師としての役割を果たしてもらいたいと思う。
 訳者の行方さんは、対訳を出された頃の恩師朱牟田先生の年齢が、今の自分よりもかなり下であることに気づくと「忸怩たるものがある」(p. 371)と言われているが、それだけに、深い内容理解にともなう読みやすい訳文になっていると断言できるし、「解説」も見事なものだと思う。
(浅野 博)