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浅野:英語教育批評:英語教育と「語用論」(その2)

Posted on 2007年4月9日

 「語用論」という名称は好きではない。「語用」は「誤用」に聞こえるし、内容もわかりにくい。初期に提案された「言語運用論」とか「言語実用論」のほうがまだましだ。それはともかく、大修館書店から注目すべき本が出ている。滝浦真人『日本の敬語論—ポライトネス理論からの再検討—』(2005) と井出祥子『わきまえの語用論』(2006) だ。両者とも著者長年の真摯な取り組みが感じられる。少し前には加藤重広『日本語語用論のしくみ』(研究社、2004)も出ていて、特に海外での研究の応用方法を具体的に示している。しかし、井出氏のものは、この二者の枠を越えようとする意図が見られ、日本語独自の視点からの解明に力を注いでいるように思える。
 くわしくはこれらの著書にあたってもらいたいが、教育現場の問題はもっと生々しい。ある学校では、教育実習生に「男生徒だけに『君』をつけるのは止めなさい。両方とも『さん』で呼びなさい」とか、女性の実習生には、「生徒の前では『女性ことば』は使わないようにしなさい」といった指導をすることがある。英語の場合は、「英語は民主的なことばだから、だれに対してもIや you だけを使うことをもっと強調しなさい」と言われる。これでは「日本語は民主的でない」ということを印象づけてしまわないか。実習生は疑問に思いながらも、単位を認定してもらえないと困るから、指導には従わざるを得ない。
 コトバというものは人間が長年にわたって創りあげてきたものなのに、人為的に変えよとするとうまくいかないのは確かだ。その政策上の問題点は、野村敏夫『国語政策の戦後史』(大修館書店、2006)に詳しいが、それでは、あるがままにほっておいてよいかというと、そうもいかない。4月4日の「天声人語」は、井上ひさしの日本語を犯人にしたてた劇に言及し、日本人は日本語の主語のないあいまいさを悪用して、戦争責任を逃れてきたという見解を紹介している。問題は単純ではない。
(浅 野 博)