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浅野:英語教育批評:研究会の運営—「英語展望」No. 115 の記事から

Posted on 2007年11月20日

 ELEC の「英語展望」は毎号読みごたえがある。ただし、この最近号は校正が十分でないのか、誤植が散見されて残念である。
 最初に私が興味を持ったのは、小田真幸「“地球語”としての英語——国際会議舞台裏からの現場報告——」である。著者は「はじめに」で、「すべての学習者が必ず英語を使う必然性のない中で、『使える英語』が何であるかということもわからないままに教えなければならない中、教師自身も日本国内にとどまりながら、必要にせまられて英語を使って何かをしなければならない状況に遭遇することは非常に難しい。」と述べている。(本題と直接関係ないが、小田氏の文章は一文が長いものが多くて、言いたいことの焦点がわかりにくい。)
 私が前回のブログで述べたように、教室内の英語のコミュニケーション活動は、とても“自然な状況”でなされているとは言えない。中・高の英語教員は ALT とはさまざまな話題について英語で話す機会があるであろうが、それをそのまま教室に持ち込むことは無理な場合が多い。
 学会主催の研究会は、日本人だけの集まりであっても、事務的な連絡や論文の採否などに関する様々な問題がおこりがちである。小田氏は、AILA ’99 とAsia TEFL 2006の運営に関する役目を担当して、その経験に基づいた問題点の指摘をしている。注目すべきは、英語母語話者が、使用言語の優位さから、かさにかかって非英語母語話者の役員を責めることがあるとの報告があることで、さもありなんと思う。それでは、非英語母語話者たちは、日本人を含めてすべてが役員の苦労を正当に評価してくれるかと言うと、それも望めないようだ。私が思うに、使用言語とは関係なく、参加者に社会人としての「常識」があるかどうかということなのである。ところが、世の中全体が、資本主義的な競争意識の中で、「常識」を失いつつあるところに、問題の原因があるようだ。小学校から実践しているはずの異文化理解や国際理解の教育は何の役に立っているのであろうか。
(浅 野 博)