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浅野:英語教育批評:英語教師と「英語を話すこと」

Posted on 2007年1月10日

 「英語教育」2006年12月号(大修館書店)の「英語教育時評」で、静哲人氏は学会などの研究発表について、司会の仕方や質疑応答を含めて批判をしている。私には大いに賛同できる見解である。
 国会の委員会の質疑応答などはもっとひどい。答える側の大臣や官僚はいちいち挙手をし、議長が指名をし、数秒かけてマイクの前に行き、答弁は2,3秒ということがよくある。どうしてアメリカの議会のように、マイクの前に座ったままポンポンとやり取りが出来ないのであろうか。そうかと思うとテレビの討論番組には、勝手に大勢が発言して誰が何を言っているのかわからないような、全く視聴者を無視したものがある。
 それはともかく、ここで取り上げたいのは、静氏が第1に述べている「英語教師なのになぜ英語で発表しないのか」という問題提起である。氏の「限定的英語公用語化論」は2005年12月号でも紹介されたが、「大賛成」という高校教諭からの投書が、今年の1月号のFORUM に掲載されている。
 こういう主張はかなり以前からあったのだが、全体的には実現しているとは言えないようだ。私自身も、かつての文部省主催の中・高教員対象の指導者講習会では、「すべて英語で」という指示に従って、10年以上も実践したことがあるのだが、本心では、「英語を使うのは時と場合によって」という考え方をしている。
 学校の英語教育は、日本語と英語の二言語話者(かなり不完全なものであっても)を育てることが目標と考えているので、適切な日本語の使用もすべきだと思う。研究発表でも、英語で発表して要点を日本語で述べる、またはその逆があってもよいであろう。「(発表者が)英語の運用力を磨くための場とする」(静氏)のはお断りしたい気がする。
 この問題は、結局、「英語教師の資質とは何か」という大きなものに繋がってくるようだ。40年も前に、「英語教育」誌は英文を2ページ以上掲載すると売れ行きが落ちると聞いたことを思い出す。そういう状況は今でも変わらないようだ。
(浅 野 博)

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