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浅野:英語教育批評:「教育機器」のこと(その2)

Posted on 2009年7月23日

(1)「そもそも教育を機械化して、本当の教育になるのか?」という基本的な問題がある。1960年代の初めの頃、ニューヨーク州からの報告に「コンピュータで教育を受けた生徒は、知識はあるが、社交性などに欠ける」というのがあった。古くて新しい問題なのである。一方、人間は道具を使うことによって進歩し文明化されたという見解がある。そろばんも筆も道具だ。
(2)政府の長期的な計画では、情報テクノロジーのための予算は4千億円とも言われる。テレビの画面を大きくしたり、コンピュータの導入をさらに進めたりするとのこと。小中学生に携帯電話を持たせるか、否かといった議論などどこかへ飛んでしまうほどの機械化推進論である。しかし、政治家の間でその是非を論じている気配はない。
(3)私がなぜ LL の利用を薦めてきたかは、拙著『LL と英語教育(改訂版)』(東京書籍、1990)に書いたので、ここでは繰り返さないが、当時(1970年代)の中高生に尋ねると、80% 以上がLL授業を歓迎していたということがある。そして、「発音がよくわかる」「自分の発音と比べられるので、英語を話すことが好きになった」などの理由をあげていた。
(4)ある公立高校のLL授業を参観したとき、完全な訳読を実践していた。40名を越えるクラスでは生徒に訳させても、声が小さくてよく聞き取れないことが多い。そこで先生は、その生徒の側に行って指導をする。他の生徒は“かやの外”に置かれてしまうのである。しかし、LLでは、どの生徒の声も全員によく聞こえる。訳読式の授業にもLL を使用する理由は十分にあるのだ。しかも、内容の確認の後では、モデルの後について音読する練習もできるし、先生は個別に、または全体を指導することができる。
(5)「英語教育」2009年8月号(大修館書店)の「英語教育時評」は齋藤兆史氏が「英語能力試験依存症、母語話者至上主義、そして訳読について」という題で書いている。これだけで、その主張の趣旨はだいたい見当がつくが、最後は、「訳読擁護論」である。「訳読式」にも様々な方法論があることも改めて認識したい。また、母語話者至上主義に関連して、第2言語習得(SLA) 研究についての厳しい批判がある。SLA研究者たちの反論をぜひ聞きたいと思う。
(浅 野 博)

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  1. 「英語教育」をよく引用されていますが、現在の紙面は、小笠原林樹氏や、中村敬氏が執筆者として、迎えられていた頃のものと比べると、恐ろしいくらい、つまらなく感じるのは、私ぐらいでしょうか。(田崎清忠センセイは、フェーズという単語が妙にお好き)

  2.  「英語教育」誌(大修館書店)は英語教育の専門誌ですが、特定な団体の機関誌ではなく、現在では一般的な雑誌としての性格ももっている唯一のものです。英語教員に与える影響も大きいので、私はよく批判の対象にしています。
     雑誌は、内容が嫌いであれば、読者には「買わない、読まない」権利があります。すべての個人的な要望が受け入れられないのは当然でしょう。もう少し広い視野から批判して頂きたいと思います。

  3. 浅野先生は、私が「批判」したと、本気!でお思いではないでしょう。それに、嫌いなら、手に取って立ち読みすらしないでしょう。私が、何か個人的要望を、紙面に、求めましたか。


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