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浅野:英語教育批評:日本語を考える(その1)

Posted on 2009年7月31日

(1)異言語からの影響
「母語以外の言語を学ぶと、その影響を受けて、母語自体も改善される」と聞いたことがある。しかし、寡聞にして、このことに科学的な実証があることは知らない。バイリンガリズムの研究がそれに近いとは思うが、学習環境とか、年齢、能力といった要素が絡み合っていて、日本の一般的な英語学習者にすぐ適用できるような結論は得られていないように感じる。
(2)言語の論理性
「日本語は非論理的な言語だから、論理的な英語を学ぶことは意味がある」と言う人もいるが、乱暴な考え方だと思う。日本語が非論理的ならば、科学など発達しなかったであろう。「非論理的」なのは日本語の使い方であって、言語そのものではない。石原東京都知事は、「フランス語は数え方がでたらめで、おかしい言葉だ」といった趣旨の発言をして物議をかもしたことがある。そのフランスで数学が進んでいることはよく知られている。日本語だって、「数」は言い方が厄介だ。「4」は「し」といったり「よん」と言ったりする。どちらでのよい場合もあるし、どちらかに決まっている場合もある。外国人にはとても難しい。「14歳」は「よん」で、「四捨五入」は「し」だ。
(3)実体のない使い方
 日本人は「申し訳ない」と言いながら、くどくどと申し訳をしたり、長々と話した後で、「甚だ簡単ではありますが」と言ったりする。政治家の言葉はもっとひどくて、「前向きに検討する」と言って、何もしなかったり、謝やまるだけで、説明責任は果たしたと言ったりする。こういうことを学校の国語の時間で教えることが必要ではないかと思う。言葉というものは、長い間の試行錯誤が大切で、間違った場合は、そのことを誰かに指摘されることが効果的なのである。
(4)日本語にないもの
 私は日本語にも「冠詞」があったらと思うことがよくある。「その」とか「あの」をつければよいのだろうが、日本人は「特定の名詞」か「不特定の名詞」か、という意識が薄いので、「指すもの」の理解があいまいになることがある。試験問題にも、「この場合の『その』は何を指すかを説明せよ」といった問題が出されたりする。日頃から気をつけたいことだ。(浅 野 博)

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  1. 「科学的な実証」がないのは、文学の領域に足を踏み入れているからだと思います。ドイツ語の堪能な日本人が、流麗な口語日本語を話し、書物にするのを、「科学的」に「実証」するのは、難しいと思います。英語を学ぶことが、私たちの日本語の正しい運用に役立ち、これなくしては、日本語自体の運用さえままならない場合が生ずるという特殊な歴史条件・言語状況の中に、今私たちが生きていると思います。

  2. 蔵川さん、コメント有難うございます。ただし、言われていることが、私にはよくわかりません。「これなくしては」が「英語を学ばなければ」ということであれば、異言語を知らない人は、日本語をうまく使えない、ということになりませんか。また、私は文学の日本語だけを問題にするつもりはありません。「科学的な」は「理論的な」と言ってもよいのですが、もう少し考えさせてください。

  3. 日本は、テレビに出演して、大きな声で、グー、と言ったり、黒い服を着てサングラスを着けて、フォー、と叫んで、出演料のもらえる国ですから、21世紀のわが国で、「日本語」の前に「正しい」という形容詞をつけたのは、不適切だったかもしれません。

  4. 日本語と非常に異なった体系をもつ英語を学ぶことは、日本語自体についての興味と反省を促し、更には言語一般についての関心を起こさせることにもなるであろう。逆説めくが、母国語しか知らないものは、母国語すらよくわからないともいえる。…日本語、日本文化の特質をよりよく理解することに通ずる…。日本語、日本文化に関する偏狭な、閉鎖的な見方からわれわれを解放して、広い視野に立って、これを見直すチャンスを与える…。(太田朗「私の遍歴―英語の研究と教育をめぐって―。大修館書店。286ページ)


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