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浅野:英語教育批評:学校の「使える英語」について(その1)

Posted on 2009年8月18日

(1)朝日新聞の「オピニオン 異議あり」欄(8月1日朝刊)には齋藤兆史氏のインタービュー記事が載ったのだが、その主張について、旧友、教え子3名から「こんな意見を認めておいてよいのだろうか」という疑問が寄せられた。私はこの記事を読みそこなっていて、友人から送ってもらって読んだので、2週間ほど経ってしまったことをお断りしたい。
(2)齋藤兆史氏については、これまでも何度か言及してきた。(ブログページの右欄の「記事内使用のタグ」で、齋藤氏の名前をクリックしてみてください。)私は賛成する場合もあり、反対する場合もあるといった是々非々の立場だが、今回の氏の主張の要点は、新聞の見出しによれば、「学校で『使える英語』なんて幻想だ」ということであり、「中・高で教えるべきは文法と訳読」ということである。
(3)「ことばの教育」のことだから、まず「使える英語」の定義を問題にしたい。文法と訳読を教えた結果、ある高校生がアメリカへ行って 、”Watch for Children” という標識を見て、「これは文法の命令文で教わった。”watch for” も熟語として、「…に注意する」という意味だ」と言ったとしたら、「使える英語」になったということではないだろうか。「使える英語」というと、多くの日本人が、「英米人のようにペラペラ話せること」と考えるのは確かであろうが、「それは『幻想』だ」ということをはっきり言うべきだ。
(4)そこで、「話せる英語なんて『幻想』か」ということを考えたい。英語の母語話者が指導者で、少人数を教える「英会話学校」は、どういう成果をあげているのであろうか。都会では、学校の数も多いし、受講生の数もかなりの数になると推測できる。しかし、「やはりものにならない」という脱落者も多いのではないか。こういう資料は得にくいので、はっきりとは言えないが、「英会話学校」でも成功しないことを、大クラスで、時間数も少ない学校の英語教育でうまくいくはずがないと思う。
(5)では「文法・訳読式」はどの程度成功するであろうか。まず第1の障害は、全般的な学習意欲の欠如である。「話すこと」には関心があっても、理屈っぽいことは嫌う傾向のある中・高生が、文法用語を多用する授業に興味を示す可能性は小さい。では、どうしたらよいのか?次回で考えてみたい。(浅 野 博)

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