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浅野:英語教育批評:“官僚”と英語教育のこと

Posted on 2009年9月10日

“官僚”と英語教育のこと
(1)政権交代が実現して、「官僚支配から政治家主導の政治」になると騒がれている。しかし、司法、行政、立法の三権分立の考え方からすれば、内閣は行政に携わるが、すべての与党議員が行政に関与するわけではないであろう。また、全く官僚のいない行政も考えられない。
(2)政治問題はともかく、“官僚”のすべてが悪いわけではない。昔から官僚は上からの命令に従順で、間違いのない仕事ぶりは信頼ができたのだ。しかし、最大の欠点は、改革の意欲が封じられていることだ。本心では「よくない」と思っていても、法律を変えようとか、新しい方法を探ろうということをしないし、できない。そのうちに、不満が鬱積して、手抜きとか、ごまかしとか、さらに悪いことまでするようになってしまった。
(3)英語教育では、こういう官僚の問題はどう関わっているであろうか。まず「先輩の決めたことは間違っていたとは言わない」という悪弊が文科省にもある。学習指導要領の内容を変更する場合にも、「前の方針が間違っていた」とは言わない。英語の授業時間数を週4から3にした場合でも、「発想の転換によって同じような効果をあげられる」といった言い訳をする。全体的な学力低下が社会問題になって、「ゆとりの教育」を改めて、時間数の増加を図っているが、省内の誰かが謝罪したとか、処罰されたという話は聞かれない。
(4)こういう馬鹿げたことを避ける手っ取り早い方法は、指導要領の法的拘束力をはずすことであろう。文科省が、学校の多様化を進めながら、画一的な教育内容を強制する指導要領を存在させていることに大きな矛盾があるのだ。地方分権の観点からも、指導要領は1つのシラバスを示すものでよい。各地域では、それを参考にもっと優れた、地域にふさわしいシラバスを作ればよいのだ。
(5)法的拘束力をはずすもう1つの利点は、英語中心の中高の教育が多様化して、他の外国語も同じように取り上げられていくであろうということだ。企業の「もっと話せる英語教育を」という声だけを聞くのではなく、地域や学習者のニーズを考慮したカリキュラムの構築と実践が可能になるはずだ。各地の教育委員会ももっと自主性をもって対応すべきだし、それが可能になると考えたい。(浅 野 博)

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