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浅野:英語教育批評:「ライティングの指導の問題点」について

Posted on 2010年5月28日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2010年6月号の特集は、「これからのライティング指導~自律する学習者を育むために~」である。最初の総論的な記事は小菅和也氏(武蔵野大学)によるもので、中学・高校を中心に指導上必要なことを述べている。「音声から文字へ」とか「意欲・関心・動機づけ」とか「ライティング≠文法の時間」とかの注意は当然のこと思うが、副題の「自律」についてはほとんど触れられていない。
(2)小菅氏は、日頃大学生指導していて、余りにも英語が書けない惨状に、基本的なことを説く必要性に迫られたと推測できるが、それならば、どこにその原因があるのかを追究してほしかった。英語教員が古い因習に囚われていると批判することは簡単だが、戦後長い間、文部省が「文法・作文」という枠の中で文法指導を提唱してきたのだから、仕方がない面があるのだ。1970年代にやっと独立した文法の教科書を認めたと思ったらば、すぐに廃止してしまった。こういう経過も軽視できないであろう。
(3)大井恭子(千葉大学)「学習者を育てるライティング――パラグラフ・ライティングとクリティカル・シンキング――」は、特集の副題に一番忠実な記事だと思う。例えば、学習者がサッカー部に誘うために書いた英文に、First, soccer is the most popular sport. という文があったら、「どうしてそう言えるの?人気があるということと、サッカークラブに入ることとどういう関係があるの?」といったコメントを戻してやる。こういう問いに応えようとすることによって、クリティカル・シンキングの思考が育つというわけだ。これは「自律性」が育つきっかけになると思われる。
(4)そもそも「自律」とは何であろうか。ふつうは、「自らを律すること」と取り、他からの規制ではなく、「主体的に自分を規制すること」と解釈する。「自律神経」は,呼吸とか消化などをつかさどる神経で、人間の意志では左右できない。しかし、肺や胃は勝手に動いているのではなく、それぞれの目的にかなうように「自律している」。そういう意味で、教育問題として「自律性」を取り上げることは概念規定も実践もとても難しいものだと思う。英作文の指導で、「何でも自由に思ったことを書きなさい」と言うだけでは、教育効果を期待できないことが多いことでもその難しさがわかる。
(5)私は、2005年頃から、大学のコンピュータ教室での英語指導を始めたが、主としてリスニング、書き取り、発音練習などに使用した。英作文指導に利用していた同僚の話では、「板書させる場合よりも、学生が進んで英文を書くようになった」とのことだった。使用機器が動機づけになることは、それまでにも感じていたが、キーを打つことが書く意欲に繋がることは、その後のケータイによるメールの普及を見てもわかる。
(6)だから現代人は文字を覚えないのだという問題もあるが、読みも書きもしない人間よりは取り柄があるとも考えたい。そして、教育的には、「禁止」の発想よりも、「奨励」の姿勢を大事にすべきではないかと思うが、やさしい課題ではない。今回は、2編の記事しか取り上げなかったが、今後もテーマによって触れさせて頂きたいと考えている。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

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