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「大学の教育改革の困難さ」を考える(その2)

Posted on 2012年12月14日

(1)大学という組織は、外部からは見えにくい複雑さと隠ぺい性があります。そうでなくても、「大学は学問研究の場」とか「最高学府」と呼ばれて、「自分たちとは別世界」といった意識が庶民の間にはあるのではないでしょうか。「権威に弱い」という封建的な国民性の一端と言えるかも知れません。時代劇「水戸黄門」の「この紋所が目に入らぬか」は、無意識のうちに日本人の国民性の一部を形成してきたと思います。

 

(2)しかし、今日では、大学教員の不祥事、とりわけ性犯罪が多くなって、大学と大学教員の評価を下げてきたことも事実でしょう。政治家の場合と同じように、一旦地に落ちた評価を回復するのは容易なことではありません。しかも、大学教員の場合は、総選挙の結果のような判断基準がありませんから、なおさら意識しにくいのです。果たして「自己改革」を大学関係者に期待することは出来るのでしょうか。

 

(3)大学は「権力闘争の場」と言っても過言ではないと思います。それは、学内の昇進人事や採用人事の際に目立つようになります。権限を有する一部の教授に嫌われたら、助教授(准教授)のままにされることがあったり、採用人事が進まないことがあったりするのです。しかも、大学の議事録などは公開されることがありませんから、内部の者でも経過を知ることは不可能なのです。

 

(4)1972年頃に、アメリカが沖縄を日本へ返還するに際して密約があって、米軍が払うべき費用を日本が肩代わりしたことは、今はネット上で明らかになっています。しかし、当時の日本の政治家たちは、少数野党を除いては、ほとんど無言でした。「出る杭は打たれる」で、黙っていたほうが保身に有利だと考えたからでしょう。大学関係者についても同じことが言えるのです。「権力闘争の場」では、「おべっかを使って、巧みに世渡りをする人間(英語で言う “apple-polisher”)が増えるのです。ちなみに、この英語の表現は、成績を上げてもらいたくて、先生におべっかを使う生徒の行為から生まれたようです。つまり“幼稚な行動”なのです。

 

(5)文部省(文科省)も、大学の実態にメスを入れたがらなかったのは、いずれ自分の天下り先になる大学へ余計な口出しをしたくなかったからと思われます。役人の天下り先としては、「なんとか財団理事長」といった役よりも貰う給料ははるかに低いでしょうが、執筆やテレビ出演などのアルバイトがしやすいことも魅力なのでしょう。もちろん大学教授の全てが“天下り”ではありませんが、テレビのコメンテーターに大学教授になっている元高級官僚が結構いるのは確かです。

 

(6)大学改革の大きな要因の1つになったのは、“少子化”だと言えるでしょう。受験生が来ないのでは、大学の存在意義が無いわけですから、現在では、ほとんどの大学が受験生集めに懸命です。したがって、入学してくれた学生には甘くなりがちです。ということで、結論は前回と似たものになってしまいました。果たして、総選挙の結果で大学は改革されるでしょうか。とても心配です。(この回終り)

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