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「カタカナ英語の氾濫」について

Posted on 2013年1月10日

(1)私はこれまでも、日本語の中の不必要な英語使用を度々批判してきました。しかし、その傾向は改善されるどころかますますひどくなる一方のように思えます。“でたらめな英単語使用”は、英語学習のためにもならないと考えていますから、今後も批判を繰り返していこうと思います。

 

(2)先日もラジオを聞いていたら、「その選択が有権者にとっては、“ベストミックス”だろうね」とあるコメンテーターが言っていました。どういう意味で使ったのか、確かめようがありませんが、このコメンテーター自身も説明出来ないのではないかと思いました。「いろいろ選択肢があるほうが、選ぶ国民の側には良い」くらいの意味かも知れません(英和辞典で、”mix” の名詞用法を調べてみてください)。テレビでは、「つまり“アウトクライ”するわけですね」と言う人もいました。「強く抗議する(”outcry”)」の意味でしょうが、カタカナ英語を使う必要は全くないわけです。

 

(3)音声面について言いますと、私は、”t” と”r” を繋げた音を、「ツ」で表すのには抵抗感があります。「そんなのは“クリスマス・ツリ―”でお馴染みだし、新名所の“スカイツリ―”だって、何の抵抗も無く受け入れられているではないか」と反論されるかも知れません。しかし、昔は野球の実況放送でも、「あの打者の“バッチング”は・・・」などと言っていたのが、“バッティング”と言うようになりました。“クリスマス・ツリ―”も、やがて、“クリスマス・トゥリ―”のように言えるようになると思うのです。

 

(4)東京新聞には、直木賞作家の大沢在昌が、「雨の狩人」という小説を連載していますが、1月6日(日)の書き出しでは、「…カウンターのストゥールから床に…」のような書き方をしています。“スツール”は広辞苑にも「背もたれのない一人用の腰掛」と出ていますが、私は、そういう表記に従わなかった作者の“音”に対する感覚に敬意を覚えました。作家でなくても、ラジオやテレビで発言する評論家は、もっと使う言葉に敏感であって欲しいと思うのです。

 

(5)トーク番組などで気になる口癖は、「何と言いますか…」とか、「どう言ったらいいかわかりませんが・・・」という言い方です。誰でも、発言に行き詰ることはありがちですが、あまり同じような言い方が繰り返されると、「この評論家は本当に視聴者に向かって意見が言える人物なのであろうか?」と疑問を抱かざる得なくなります。発言者は、言い足りなかったことを思い出したら、司会者に断って補足をすれば済むことだと思います。

 

(6)それにしても、ラジオはともかく、テレビ番組は、忙しい作り方をするものです。CM (これも日本語的省略です)が入るのは仕方がないとしても、30秒で結論が出るような問題をだらだらと小出しにしながら続けるのは感心出来ません。しかも、議論が盛り上がると、結論は出さずに次の話題に転換してしまうのです。「ビート・タケシのTVタックル」(朝日テレビ系)などが典型的なものです。

 

(7)バラエティーにしろ、政治問題にしろ、司会者と言えば、ビートたけし、さんま、みの・もんたくらいしか出てこない日本のテレビはどうかしています。しかも土曜日の番組などは、ほとんど自局の番組の宣伝で、中味のある番組が無いのです。これでは、広告も映像もインターネットに奪われてしまうのも分かります。もう後の祭りではないかと心配です。(この回終り)

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