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浅野:英語教育批評:「格差」で考えたこと

Posted on 2007年3月5日

 「格差」は「所得格差」「賃金の格差」のように使われる用語だが、今は社会の様々な「差」を指すことが多い。教育の場では、「個人差」「能力差」のように「差」が使われる。かなり以前に当時の文部省は「学力別」や「能力別」を避けて、テスト結果などによるクラス分けを「習熟度別」と呼んだ。言い方を変えても「学力差」の存在は認めざるを得ないのだ。
 安倍首相は「格差の有無を論じることは意味がない」と言う。「まじめに努力する人と怠けて努力しない人とで差が生じるのは当然だ」と考えているからだ。これは競争が原理の自由主義経済を政策とする以上は自然なことだ。19世紀には、こういう政策を否定するマルクス主義やアナキズムが生まれた。完全な自由や平等を前提とする思想だ。日本も第二次大戦に負けてから、アメリカの「自由平等」に憧れてきた。
 しかし、「自由平等」は矛盾した概念だ。自由であれば平等ではないし、平等であれば自由はない。これは社会主義国が実証してくれた。アメリカの歴史自体もこの矛盾との戦いの歴史だ。第3代大統領のトマス・ジェファソン(1743−1826)は若くして独立宣言の起草に貢献したが、彼の思想の前提は “All men are created equal.”(すべての人間は平等に創られている)だった。この文の主語を “men and women” と言い換えたのは女性運動家のエリザベス・スタントン (1815−1902) だが、女性参政権は、1920年の憲法改定でやっと認められたのである。その他にも、先住民との軋轢や黒人差別の問題があって、建国の理想とは程遠い時代が20世紀後半まで続いたのである。そして現在は「帝国主義化」と批判されている。
 アメリカ史の題材は、キング牧師の演説以外には英語の検定教科書には見つけにくい。「英米一辺倒を廃し、国際性のある教材を」という声が強いからだ。これからも中・高生は、英語力もつかず、英米に関する知識も持たない状態が続くのであろうか。
(浅野 博)

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