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日英語ことばのエッセー(その9)(アメリカ人に学ぶ日本語)

Posted on 2014年5月2日

(1)読売テレビ(関東地区では日本テレビと同じ)に、「秘密の県民SHOW」(放映は不定期)と題する番組がありますが、私はこういう英語まじりの表記は好みません。それはともかく、この番組では都道府県のあまり知られていない食べ物や生活習慣を話題にするのですが、例えば、「富山県ではこんな食べ物が珍重されている」と司会者が言うと、富山県出身のタレントが、「そんなもの聞いたことも食べたことも無い」と言い出して、大騒ぎになります。明治4年(1871)の“廃藩置県”以来、すでに120年以上経っているわけですが、同じ県民でも知らない文化があることは珍しくないようです。

 

(2)アメリカのように大きな国では、地域によって食べ物や生活習慣が異なるであろうと日本人の多くが考えます。事実、ある地名や食べ物に含意されるものは、一般の日本人には分かりにくいものがあるようです。そういう微妙な差異については、マーク・ピーターセン『心にとどく英語』(岩波新書、1999)に詳しく解説されています。日本人の英語学習者は、英語の単語や文法ばかりでなく、こうした文化的な違いも学ばなければなりません。

 

(3)例としては、 “Please don’t give up.”は、日本の中学生でも分かるであろうが、”Don’t give up on me now.” はどうであろうか、とピーターセン氏は関連のある映画の場面に言及しながら解説しています(p. 56~)。 こういう“on me” は、“迷惑の on”として、「今度あなたが諦めたら、私が困るのよ」という意味になると説いています。

 

(4)話は変わりますが、TBS ラジオの「荒川 強敬デイキャッチ」(平日午後3時半~18時)という番組では、山田 五郎という評論家が出演(木曜日)しています。展覧会や博物館など文化面の情報に強い人です。ある日の番組で、「近頃は学生たちが、“国際的な仕事をしたい”とか、“国際的に通じる英語を学びたい”といったことを言うので、和英辞典で“国際(的)”を引いてみると、“international” くらいしか出ていない」と不満を述べていました。この問題は和英辞書の問題というよりも、日本人の英語に対する姿勢に関係があると私は思っています。そして責任は英語教育にあります。

 

(5)日本人の日常生活では、「正直に言うのも“なんですから”」と言葉を濁すことがよくあります。聞いているほうも分かったような顔をします。英語話者でも発話の途中で、“you know….” と言いながら、ウインクをすることがありますが、何を言いたいのかは、聞き手に明確に推測がつく場合が多いと思います。

 

(6)ところで、日本語の達者なトム・ガリー(Tom Gally)氏(東大教授)には、『英語のあや』(研究社、2010)という著作があります。副題には、「言葉を学ぶとはどういうことか」とありますから、日本人学生のような、外国語(異言語)として英語を学ぶ生徒、学生を視野に入れていることは確かです。実は、私も英語辞書の『フェイバリット』シリーズ(東京書籍)の責任者として、ガリー氏には大変にお世話になった一人です。

 

(7)ガリー氏は上述の本の中で、「新宿あたりを歩いていたら、アジア系の外国人と思える男性に、“Can you help me? I’m looking for the department store.” と言われて、20年以上も日本に住んでいる自分がすぐに答えられなかったと述べています。その理由は、“the” にあるというわけです。冠詞は日本人にも難しいものですが、“the” が付けば、“相手も知っているデパート”を意味するので、ガリー氏は、「どのデパートだろうか」と考えてしまったというわけです。

この章のタイトルは、「コミュニケーションの基本として、相手が何を知っているかを考慮する」です。この姿勢は以前に紹介した、阿川 佐和子氏の『聞く力』と共通するように思います。

 

(8)文科省も、「英語は英語で教えろ」などと言う前に、日本語によるコミュニケーションのあり方を勉強して、日本語の望ましい在り方を示すべきだと思います。カタカナ語混じりの最悪の日本語を使用しているのが国会議員たちですから、そんなことは望むべくもないことかも知れません。はなはだ遺憾なことです。(この回終り)

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