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浅野:英語教育批評:「見通しの甘さ」

Posted on 2007年6月26日

 この頃報じられる事件は、ほとんどが関係者の「見通しの甘さ」が原因になっているようだ。「この程度ならばれないだろう」とか「事故にはならないだろう」といった判断が大きな犯罪や事故に繋がっている。加工食品とか遊園地の遊具といった具体的なものについても、適切な見通しを立てることは必ずしも容易ではないであろうが、教育の場ではさらに大きな困難が伴う。生徒も教員も人間だからだ。多くの教員はそういう困難と毎日のように格闘している。「この教材をこのように教えたら、どの程度生徒がわかってくれるだろうか」とか「このテスト問題で平均点は何点になるだろうか」といった素朴な問題でも“見通し”の判断をせまられている。
 一方、政治家や官僚の見通しはずいぶん甘いと言わざるを得ない。安倍首相からして、「この法案が通れば、望ましくない教員には辞めてもらうことができるんです」といった趣旨の発言をしていた。一体、誰がどうやって、望ましい教員と望ましくない教員の判定をして、「首を切る」ことができるのであろうか。しかも最近では、「望ましくない親」の増加が目立つという。教員は、自分の地位は危なくても、そういう親の子どもを退校させることはできないのだ。
 もう1つの甘い判断は「官から民へ」という競争原理の導入である。競争をさせれば、品物は安くなる、消費者は助かると単純に考えているようだ。「性善説」が事実ならともかく、競争に負けないようにと夢中になるあまり、悪いことも考えるのが人間ではないか。政治家や官僚たちは、学生時代にカンニングをしなかったか、または自分はしないまでも、周囲の不正行為に悩んだことはなかったか、よく反省してみてほしい。形式的で無意味な規制が多かったのは確かだが、それを撤廃することで、結果がどうなるかを十分に見通すべきだったのである。しかもこの競争原理は教育の世界でも着々と進行している。なんとかしなければ。
(浅 野 博)

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