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浅野:英語教育批評:「せめて1時間くらいは」

Posted on 2007年9月11日

 「小学校の英語」の扱いがはっきりしないところに、参院選挙の結果で与党が不利になったために、指導要領の作成など万事遅れ気味になっていることは、このブログ(7月31日号)でも書いた。最近、中央教育審議会が小学校の授業時数を増やすことや、5,6年生に英語を「週1時間程度」教えることを決めたと報道された。「英語より先にやるべきことがあるのではないか」という文科大臣の一言で、足踏みをしていた小学校の英語教育が、こんな形で実行に移されるのであろうか。来年度予算としては 40億円くらいを要求しているようだが、これは昨年度のもの(わずかしか認められなかったが)と同じ額だ。文科省の意図はあくまでも「教科化」にあるのであろう。
 ところで、「せめて」「やはり」「さすが」のような英語になりにくい言い方を日本語の特徴として捉え、その背後にある日本人の考え方を論じたものに板坂元『日本人の論理構造』(講談社現代新書、1971)がある。「せめて」については、日本人の間では、ある限度であきらめる気持ちがより審美的により高貴なものと見なされ、「せめての論理が手段としてではなく目的に転化される点、やはりすぐれて日本的な価値意識として特筆されるべきであろう」と述べている。
 今のところ、誰かが「せめて週1時間」と言ったわけではなく、私の勘ぐりで使ったのだが、案を作った審議会の委員の頭の中にはこういった「あきらめ」と「満足感」が混在していたのではないか。それで実施されたときの問題点を考えていないとしたら、想像力の欠如としか言いようが無い。「教科」になれば、都会ではより良い成績を得るために、塾や会話学校に通わせるという悪習がより盛んになる。予算が通れば、テキスト代や臨時講師の手当てなどに使われるのであろうが、これまで議論されたはずの担当者や教員養成の問題は棚上げにされたままになるのであろうか。一方、「教育特区」では中学英語の前倒しが進んでいる。とても賛成できる案ではない。
(浅 野 博)

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