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浅野:英語教育批評:教室内のコミュニケーション活動

Posted on 2007年11月13日

 だいぶ昔のことだが、ブリティッシュ・カウンスルのダン氏(英語教育担当官)と外国語教育について話し合ったときに、彼は「外国語教育というのは学校の教科として考えないほうがよいのかもしれない」と言った。その理由は、イギリスの学校では、フランス語のような場合には、教師の留学を義務付けたり、生徒の短期滞在を実施したりするが、思うように成果が上がらないというのだ。
 「でも、日本の英会話学校の真似をしてもだめでしょう」と私が言うと、「それはわかっている。だから難しいのだ」と悩んでいた。イギリスは1980年代に入って、大規模な教育改革を始めて、外国語を必修科目にしたので、ダン氏のような見解は生かされなかったようだ。
 教室で英語を自由に操れるようにということで、コミュニケーション活動を盛んにやらせても効果があがりにくい。1つには、学級は同年輩の学習者の集まりだということ、しかも、すぐに顔見知りの仲間になる。そして先生対生徒という形での対話が多く行われる。これは、極めて限られたコミュニケーションの状況である。そこで、やむを得ずに「会話ごっこ」をさせる。生徒は一応嬉々としてその「ごっこ」を楽しんでいるように見えるが、英語そのものは必ずしも定着しない。そこへきて、クラス・サイズが大きい、時間数が少ないといった障害もある。
 それなら、「会話ごっこ」などは止めて、「英文法をしっかりと教え、基礎的な訓練に徹せよ」といった主張がなされるのも当然であろう。斎藤兆史氏の著作(最近のものは『これが正しい!英語学習法』(ちくまプリマー新書)などがその代表的なものだ。私は、氏とは時々メールで意見交換をさせてもらっているが、私の疑問は、「基礎的訓練の重要さはわかるが、今の生徒はそれではついてこないものが多い」ということである。やはり必修化は間違いではないか、英語教育は教科として成立しにくいのではないか、という、冒頭のダン氏の疑問にもどってしまうのである。
(浅 野 博)

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