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浅野:英語教育批評:英語の発音のこと

Posted on 2007年12月4日

英語に限らず、母語以外の言語の発音がうまいというのは、生まれながらの才能だという先入観を私は持っていた。戦後間もない頃、東京教育大学附属中学で教育実習をしたときに、中学2年生で音読のすばらしくうまい生徒が何人かいるのに気づいた。当時のことだから、留学経験もなければ帰国生でもない普通の家庭の生徒だった。それと、戦時中でろくに英語を教わっていないはずの私の同級生にも、英語の発音が巧みな人が何人かいたこともこの先入観のきっかけだった。
タレントの中でも「ものまね芸人」というのは数が少ない。それほど「ものまね」は難しいのだ。“コロッケ”は例外的な名人だが、その芸には本物とは違う創造性がある。やはり「才能」のお陰だ。音痴な大人は、このカラオケ時代にはつらい思いをするのだが、指導法によっては、どうにか聞ける程度には上達する例をテレビで見たことがある。それは集中的な個人指導と本人の努力の成果だった。発音訓練は若いほど効果があるといっても、小学校の5,6年生で、週一時間程度英語をやって、効果があるとは思えない。
字がうまい人は書くことが好きで、たくさん書くからますます上達する。発音がうまいと、話すことや音読の練習が楽しいから、ますますうまくなる。しかし、そうした期待ができる生徒はごく限られているとしたら、どう考えるべきであろうか。字の下手な人にはワープロという強い味方がある。前回で紹介したある種の機器を使う「トマティスメソッド」で発音がうまくなるなら試してみる価値はある。
それが実現できないならば、「発音は言語使用の一部に過ぎない」と考えるべきだ。発音は下手でも「書くこと」がうまければよいではないか、英文の正確な理解力に優れていたらよいではないか、と思えばよい。そうやって得意な分野で自信を持った生徒が、徐々に自分の弱点を克服する努力ができる英語教育が望ましい。現在の方法や制度は、そういう「再チャレンジ」を不可能にしているのだと思う。
(浅 野 博)

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