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浅野:英語教育批評:「文化リテラシーズ」のこと(その1)

Posted on 2008年1月8日

 英語教育では、「国際理解」とか「異文化理解教育」とかいうことはよく話題になるが、「リテラシー」という語はほとんど使わない。しかも、複数形ではなおなじみがない。今日では、Englishes という複数形もあるくらいだから、いろいろな対象や段階を考えると複数形も当然考えられる。狭い意味では、「読み書きができること、識字力」のことだが、広義ではほぼ無数の使い方ができる用語であろう。
 文化とリテラシーの問題を詳しく追及しているのが、昨年10月に出版された佐々木倫子・他編『変貌する言語教育——多言語・多文化社会のリテラシーズとは何か——』(くろしお出版、2007)である。この書物は、シンポジウム式の編集になっていて、議論の発展が理解を深めてくれる。内容については、次回に考察することにして、ここでは、用語の和訳の問題を取り上げてみたい。
 この本の冒頭に、フランス出身でMIT などで教授経験のあるクラムシュ氏による「異文化リテラシーとコミュニケーション能力」の翻訳論文がある。その中の用語の訳し方に次のような問題があったとこの本の中で指摘されている。
”this banking view of cultural literacy”
旧訳:文化リテラシーのこの「投資的見解」
新訳:文化リテラシーのこの「銀行型教育」的な捉え方
 この旧訳は間違いとした解説がある (p.48) が、新訳の「銀行型教育」もわかりにくいと私は思う。論文の脚注で「従来の知識注入型の教育観」(p.3)であることは分かるが、私は「このように、文化リテラシーについて銀行に預金をするように知識注入式に教えるという見方をすること」くらいに訳したほうがよいと思う。動詞の ’bank’ は「銀行に預金する」ことなので、ただ「銀行型教育(的)」としたのではわかりにくいし、こんな用語が教育界で普及するとは思えない。専門用語は専門用語らしく訳さないと論文にならないと考えるのは間違いだ。
(浅野 博)

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  1. 「銀行型教育」は,スラム民等被抑圧者の,労働者としての地位確保や,そのための識字教育などでおなじみのパウロ・フレイレの著作を通じて,すでに教育業界では一般化した固有名詞ではありますが,確かに,フレイレを読んでない人には何が「銀行」なのか,よくわかりませんね。

    ただフレイレの意図を汲めば,金融資本が支配する資本主義体制そのものこそに対決したその教育学においては,「銀行型」には単に「預金するように」,という意味を超えて,人間が経済制度のなかでかくも非人間化されるとの,マルクス主義の理論体系全体の中での金融・資本のあり方をも含意している。なので,変に意訳して意味を矮小化するより,読者にその背景文脈を読み取る余地を与えた「銀行方教育」は,逆に,名訳といっても良いかもしれませんね。

  2. 匿名で失礼いたします。外国人に日本語を教えている者です。
    「銀行型教育」は、ブラジルの成人教育(特に識字教育実践)で著名な教育家パウロ・フレイレの概念(の邦訳)から来ていると思います。
    『被抑圧者の教育学』(亜紀書房、1979)をご覧になってください。日本語教育では、青木直子/尾崎明人/土岐哲・編『日本語教育学を学ぶ人のために』(世界思想社、2001)などで教師を目指す人が読む本でも取り上げられている実践(と概念)でもあります。

  3.  ご返事が遅れましたが、ご指摘有難うございました。
    「『銀行型教育』といった用語は教育界で普及するとは思えない」述べたのは言いすぎだったと反省しています。
     私の参考にしたのは、『新版日本語教育事典』(大修館書店)で、その索引にも載せてありますが、ご指摘のような参考文献はまだ読んでおりません。もう少し勉強してから、「言語教育と思想」のような問題もブログで論じてみたいと考えています。
     それと、定着してしまった用語でも反省して考え直すことは必要であろうと思います。もっとも、普及してしまったカタカナ用語を言い換えてみても、なかなか効果がないのと同じで、効果がないことは予期していますが。


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