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浅野:英語教育批評:「異文化理解」を教えること(その2)

Posted on 2008年1月15日

  25年ほど前のことだが、学習指導要領の「国際理解」のことが話題になったとき、同僚の応用言語学のアメリカ人とそのことを話し合ったことがある。
(1) international understanding
(2) intercultural communication
の2つを彼女に示して意見を求めたところ、「国際理解」に当たる英語としても、(2)のほうが今後使用していくことが望ましいと主張した。日本人は「国際化」「外国語教育」のように「国」を使った言い方を好む傾向がある。最近のヨーロッパのように一体化が進むと「国」の意識は弱まるのではないかと思われるが、彼らには「アイデンティティ」という意識があって、「個」というものが異文化交流の中で埋没してしまうことはあまりないようだ。日本人は仲間意識が強く、「国」への依存心があるから、「個」を強調する「アイデンティティ」という概念は分かりにくいし、育たない。
 前回紹介した『変貌する言語教育』(くろしお出版)の第2章には、細川英雄「日本語教育における『学習者主体』と『文化リテラシー』形成の意味」という論文がある。そこでは、戦後の日本語教育の変遷が一覧表にして示してある(p.28)が、要点だけ示すと、A.60〜70年代「何を?」、B.80年代「どのように?」、C.90年代〜「なぜ?」として、目標と形態はA.「内容/ 構造化」「教師主導」、B.「教育方法/ 機能化」「学習者中心」、C.「教育関係/ 活動化」「学習者主体」となっている。Cの段階が、細川氏の論点で、本書の他のところでも論じられている。
 英語教育では、「動機づけ」や「学習者中心」に関する書物は少なくない。「学習者主体」というのは当然のこととしているのか、これをまともに論じたことはないように思う。早い話が、学習者なくして教師はないのだから、主体はあくまでも学習者であるべきだが、そのことを「理念」としても確立する必要性を感じさせる問題提起のように思う。
(浅野 博)

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