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浅野:英語教育批評:「空気を読む」について

Posted on 2008年1月29日

 最近は「KY」で「空気を読めない」を表わし、「あいつはKY だ」などと使う。「空気」が「雰囲気」を意味するのは昔からたが、「KY」などが流行るのは「空気を読めない」人たちが増えているからであろう。
 そういう人たちの好例は政治家だ。例えば、本会議での代表質問などはほとんど無意味に思えるが、改革しようという声は聞かれない。テレビに写る首相の顔を見ても真剣に聞いているとは思えない。答弁は用意された原稿を読むだけだから聞く必要がないのだ。議場は野次と怒号が飛び交うことが多く、居眠りをしたり、欠席をしたりしている議員も少なくない。そんなことに2日も3日も使う無駄を反省する議員もいないようだ。だから「国民の声は…」などと安易に言ってもらいたくない。
 「空気を読むこと」が必要なのは教師も同じだ。名簿順で分けたクラスでも雰囲気に違いが出ることが多い。授業のときはうるさいくらい活発なクラスもあれば、静かでおとなしいクラスもある。活発なクラスが試験をしてみると意外と成績が悪くてがっかりすることがある。ましてや個々の生徒の心の内を知ることは難しい。それでも日々指導の改善に努力している教師はいるはずだ。
 「英語教育」2008年2月号(大修館書店)は、「自律的学習者を育てるための教師の役割」を特集している。「オートノミー」がキーワードで、その定義や実践上の問題点が論じられ、それぞれ示唆に富む考え方や実践例になっている。
ちょっと気になったのは、「eラーニングで自律的学習者は育たない?」で、筆者の亀山太一氏は、「今の若者はゲーム世代だから、eラーニングなら学習意欲も高まり、自発的に学習する」というのは迷信である、と述べている。間違いではないが、機器と学習の関係は、機器の導入が本格化したLLの時代 (1970~) から問題にされたことで、一方では「機器が動機付けとして役立つ」ことも実証された点がある。人間教師に代わる万能な教材や機器はまだあり得ないが、もう少し視野の広い論評を望みたい。
(浅 野 博)

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