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浅野:英語教育批評:「一事が万事」ということ

Posted on 2008年2月5日

 最近はこの言葉を耳にすることは少なくなった気がするが、日本人の意識の底には根強く流れている考え方ではないかと思う。文字通り「一つの事であとのすべてが推測できる」ということだが、実際は良いことにはあまり使わないようだ。政界では、野党が政府の法案に“条件付き反対”などと言っても訴える力がない。“絶対反対”か“全面的賛成”でないとダメなのだ。郵政民営化がそうだった。だから、途中の議論が抜け落ちてしまう。
 学校の教師は、生徒のことをテストの成績だけで判断しがちである。卒業生のうわさをして、「あいつは泳ぎが不得意だった」とか「音痴だった」とかいうのは、「でも勉強はできたね」と続く可能性がある。しかし、「勉強ができなかった」は「どうしようもないね」になってしまう。しかも、この場合の「勉強」は、限られた受験科目とそのテスト結果だけを意味している。
 日本ではあまり適切な「書評」が育たないと言われる。書物の欠点だけを指摘すると、著者は全人格を否定されたように思って猛烈な反論をしてくるので、議論にならなくなる。「英語教育」誌上でも、書評をめぐってかなり感情的なやり取りが行われたことがあった。今日では、議論のやり取りは2往復くらいまでと編集部のほうで決めているようだ。感情的な発言では、他の読者には迷惑なのは確かだが、授業ではコミュニケーションとかディスカッションとかを口にする英語教師がまともな議論ができないのである。
 こういう傾向が生じるのは、日本人が幼い頃から「一事が万事」という判断が横行する環境で育ってきたからであろう。「英語が話せない」というだけで、「英語教育はダメだ」ということになる。「話せないけれど読める」とか「書ける」でもいいではないか、という考え方があってよいはずだ。しかし、今の時代では英語を話せる人材が必要なのも当然である。「生徒の個性」とか「学習者のニーズ」などと言うならば、特に高校では、もう少しおおらかな指導方針の実践を考えてもよいのではなかろうか。
(浅 野 博)

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