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浅野:英語教育批評:声の大きさ

Posted on 2008年8月11日

 夏休みになると、電車とかファミレスなどが子どもの声でとてもうるさい。どうして必要以上の大声を出すのだろうか。そばにいる親もそういう環境で育ってきたせいか、注意を与えることもない。だいたい日本人は、昔から声の大きさに無関心で、むしろ「声の大きいやつに悪人はいない」などと声が大きいことを自慢する風潮さえある。
 英語指導のことを考えてみても、「もっと大きい声で!」と注意をする教師が少なくない。確かに、40人もいるクラスで、ぼそぼそと小声で答えられたのでは、教師のほうもいらいらするのはわかる。しかし、そういう指導が「いつも大声で話す」という習慣を助長していることも考えたい。隣のクラスへの配慮も必要だろう。そもそも声の大小は、時と場合によって使い分けるもので、そういうことを訓練する機会がないことが問題だと思う。
 声ばかりでなく、音響機器の音量にも配慮が必要だ。一般にスピーカーの音はかなり遠くまで届くのである。学校では隣の教室へ行って、聞いてみるとよい。生徒がいる時といない時では音の通じ方が違うが、放課後など試しておきたい。家庭でも、テレビの音声をふすま越しに聞いてみるとよい。その部屋に野球中継などに関心のないお年寄りがいたら、かなりの苦痛になるはずである。
 音量というものは、臨機応変に調整すべきもので、柔軟な対応が必要である。日本人の考え方にはどうもこの柔軟性がない。数年前の現官房長官が文科大臣だったときの、大クラス(40人)か小クラス(30人)かという問題でも、「大クラスは必要だ」「いや、小クラスのほうが教育効果が上がる」「そんなことは実証できるのか」といった議論に終始していたように思う。実際は、「どういう教科で、どういう指導をするときに大クラスがよいのか、それとも小クラスがよいのか」といった発想の柔軟性が必要なのである。どの教科も、どのような指導法を用いても、同じ規模のクラスで、といった硬直した考え方では問題は解決しない。
(浅 野 博)

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